Eno.908

――かえりたい。

星屑が言いました。

その声を皮切りに、光の塵は一斉に騒ぎ出します。
彼のところに、巣に、群れに、若葉の青いところに。

あの日、あの場所に。

それらの手を引く一等星は、少し肩を竦めました。

Eno.908

*リーン

   リーン……*

Eno.908

……草を刈るって、時を戻すみたいじゃ。

そのうちまた同じように生えて、
また同じように刈りとる。」

どうした、急に。」

……わしの“時”も戻ればいいのに。」

Eno.908

……戻ったように見えるだけよ。
来年生える草は、今年と異なる草じゃろう。」

来年……
わしは、来年……」

Eno.908

*りぃん……*

Eno.908

ぁ……っ
ねえ、にいちゃん見て!

すすきの頭みたいな流れ星!」

すすき?
なんじゃあれ!?本当に星なのか?」

Eno.908

空からはらり、白いものが落ちてきました。
花弁のようにも、小さな葉のようにも見えます。

Eno.908

にいちゃん、これ……」

Eno.908

しかし、幼子の手のひらに落ちたそれは
微かなぬくもりだけを残して溶けてしまいました。

Eno.908

 

Eno.908

 

Eno.908

おい、どうした?」

ん?

なんでもない。
でも、なんか……

良いことある気がする!」

なんじゃそりゃ。」

Eno.908

何処かで夜が訪れるたび、
彗星は何処かの空に現れました。

何処であっても、
いつであっても、

そこには変わらぬ星空がありました。

Eno.908

縁を手繰るように、懐かしき空を転々とします。

Eno.908

星屑は微かな思い出を刈り落とし

Eno.908

小さな草葉として舞い降ります。

Eno.908

それで何かが変わるわけでもなく。

Eno.908

しかし何も変わらぬわけでもなく。

Eno.908

数多の地に還る置き土産。

彗星はいつの間にか、随分と小さくなりました。
それでも構いません。
星巡りの旅を続けます。

やがてそれは、空の”行き止まり”に辿り着きました。
ここに来たらもう、旅は続けられません。
それでも構わないのです。

Eno.908

なぜならずっと、
この空を探し求めていたのですから。

Eno.908

……——

Eno.922

ぱきり、ぱきり。

古風な紙燭に照らされた部屋に、乾いた音が響く。

Eno.922

火を絞って薄暗い部屋には、
囲炉裏端に掛けた三眼四臂の異形が一人。
傍らに積み上げた柴の古枝を折っていた。

ぱきり、ぱきりと、定期的な響きを以て、
時計の針のように夜を刻んで行く。

無論、夜を押して灯りを減らしてまで、
要する作業とは言えない。
しかしながら、異界の夜は番もなしに明かすには
物々し過ぎた。

そして、寝ずの番を立てるなら、
必要がなければいつまでも寝て居られる代わりに、
必要があればいつまでも起きて居られる者が
請け合うのが穏当だ。

Eno.922

囲炉裏の火は灰を被せて落ちており、
立て切った戸の向こうでは、
守るべき子らが寝息を立てている。

異形は、いつか十万億土へ旅立った片割れの、
“戻る”という約束を心待ちにしているのにも関わらず、
夢枕に立つ機会をも与えられずに居るのを
何処か可笑しく思いながら、小さくなった枝を積んでいく。

Eno.922

――その時、異形はふと、顔を上げた。
窓の外に広がる星空の内に、
殊更強い光が瞬いた気がした。

異形はそれを見定めようと窓に近付いたけれども、
その時点においては、
自分を窓際へと誘った何ものも
見付からないようだった。

Eno.908

窓の外の星空は物言わず、
地上は墨に染まるばかり。

代わりに動きを見せたのは、
異形の居る部屋の方だった。

壁が微かに瞬き、影が揺れ動く。

振り向けば、紙燭の灯火が、
風もなしにふつふつと乱れるのが目に入るだろう。

Eno.922

異形は、
窓辺から何ものも眠った景色を睥睨した後、
薄暗い壁際に立った自身の影法師が、
煙のように棚引くのを認めた。

何だ……?)

初めは仮面の金の三眼が。
それから和装の身体も振り向けて、
火影を乱す紙燭へと一歩、足を踏み出す。

Eno.908

灯火は、数度震える。

そして、異形が紙燭の前に
立つのとほぼ同時……

Eno.908

青く変わった。

闇が一歩踏み出し、
部屋は濃紺の帳で覆われる。

灯火の震えは収まり、
ただ青白く、凪いでいる。

Eno.922

昏い部屋に差す、燐火のような光。

Eno.922

紙燭に立ち昇るその一条が眼に映じた時、
異形は、はっとして自身の左手の一つに眼を落とす。

そこには紙燭に灯るそれと同じ、
濃紺の輝きを薄明かりの中に返していた。

Eno.922

異形は伸ばしかけた腕を
静かに胸の前で結んで、
薄明かりの中に立ち竦んだまま、
絞り出すようにその燈火へと語り掛ける。

葵……?」

Eno.908

異形がその名を呼びかけた直後……

Eno.908

火は傾いた。

鈴のような音をたてながら
転がり落ちた。

火種を奪われた紙燭の先が、
一筋の煙を燻らす。

Eno.908

転げ落ちた物は、
床に吸い寄せられるままに伏していた。
燃え広がることもなかった。

それは小さな葉のようにも、
花弁のようにも見えるが、
ひとつ異様なことに、
端に新芽のようなものをつけている。

あなたの声に応じてか、
火であったものは、
徐々に形を変えつつある。

Eno.922

な――」

それが床へと転げた時、
異形は悲鳴ともつかない声を上げて
四つの掌を床へと付けた。

Eno.922

いや、これは……」

しかし、ようやく掴みかけた糸口の、
陽炎の如く、幻燈の如くに消えるのでないと知れた時、
異形はようやくそれをつぶさに観察する自由を得た。

勢い任せに付いた手を離して、
膝を折ったまま、事の次第を固唾を飲んで
見守っている。

Eno.908

三眼が映す陽光を目指すように、
新芽は一本の茎を伸ばした。
枝岐れるように、畳んだ葉を広げていく。

時折震えるように揺らぐ光が、
それが灯火のままであることを示すが、
変わらず、一本の草を装い続けた。

Eno.908

やがて名も無き草は、
大きな蕾をたったひとつ背負い、
葵のような花を綻ばせる。

その草は、葵と呼ぶには
あまりに短躯で、花芽もなく、貧相だろう。

だが、その花だけは
しっかと三つの陽光に手を伸ばしていた。

Eno.922

周囲に覆い尽くそうとする昏い影を、
弱々しく押し返す光が、
異形の影を長く、薄く、
壁際へと映し出す。

Eno.922

そして、柔らかな土もなく、
清い水もなしに、
それでも花弁を開こうとするその花を
見るに及んで、
異形は思わず、再び手を床に付いた。

葵、お前なのか……?

そんなに小さく、
人の形を失っても。
ここへ確かに、帰って来てくれたのか……?」

そうして、やっと咲いているその一輪を、
慈しむようにそっと触れる。

Eno.908

*りぃん……*

花と指先が触れ合えば、
まるで答えるように、
小さく、鈴の転がる音がした。

Eno.908

その刹那、花が眩い光に包まれ、濃紺の帳を裂く。
壁中があっという間に晴天色に塗り変わり……

Eno.908

否、異形は“晴天に放り出された”。

どこまでも広がる青と、眩しい光。
地上と思しき白い輝きが、
見降ろす先に小さく見える。

床が抜け、異形の身を浮遊感が襲うが、
重力は軽く、あたたかな風が包んでいる。
舞い踊る青白い蛍と共に、
漂いながら降りていくだろう。

地平線上には、
三つの陽光——幻日が輝いている。

Eno.922

眩んだ三眼が再び像を結んだ時、
最初に映じたのは浮いた自らの足先と、
碧く若い草葉の色。

Eno.922

その地平へと静かに両の足を降ろせば。

あれは……」

周囲を見渡すのも忘れ、
ただ降るような光に眼を奪われた。

それはかつて、
紅い空に描き出され、共に見上げた三つ子星。
帰還を契る導きの灯。

その事実を認めた時、
知らず、異形の手が固く結ばれた。
そうして握り込んだのが、
待ち侘びた再開に焦れる喜びによるものか、
待ち人の口にした”壊れる”という不安によるものか、
それは異形自身によっても判然とはしなかった。

Eno.908

異形が眩い光を見つめる中、
紛れるように小さな光が流れ落ちる。

それが流れ星であったなら、
すぐさま溶けて見逃してしまうだろう。

だがそれは消えることなく、
光の点として空に留まる。
さらには、異形のいる地上へと近づいている。

Eno.908

み の り ね え ちゃ ーー…… 」

くるりくるりと落ちてくるそれは、
聞き覚えのある甲高い声を響かせた。

Eno.908

みのりねえちゃん!!!」

そしてあっという間に、
異形の眼前まで落ちてくる。

Eno.922

異形は、
何処とも知れぬ声が耳を賑やかすに及んで、
ようやく首を巡らし始める。

その声は……――」

Eno.922

空からヒトデが降って来た!?」

Eno.922

しかし、目の前に落ちて来るとなれば、
余程の速度でない限り、
その四つ腕で受け止めようと手を伸ばす。

いやその呼び方……、
其方、銭田弟もといクウか!?

何故ヒトデなんだとか、
色合いも違っているようだとか、
聞きたい事は色々あるが……」

Eno.922

――良く、帰って来たな。

四十万の路を歩くのは、
さぞ骨が折れたろう。
その困難は察するに余りあって、
筆舌に尽くし難いものだろうが……、
一先ずは、其方の無事が知れて良かった」

Eno.908

掌で受け止められたヒトデが
ぽよぃんと弾む。

そうじゃ、弟もといクウじゃー!!
まあ、いろいろあって名を改めたので
さらに“もといタイマ”となるが、
今はわしのことはいいんじゃ。

ただいま……と、言うには少し早い気もするが、
とりあえずはただいま!」

Eno.908

大変じゃったよー。

もう駄々こねるにいちゃんを
無理矢理引きずって道を切り開いたから
おかげでこんなに小さくなってしもうて……

まあ、わしは大丈夫なんじゃが
問題はその、にいちゃんの方で……

帰ってきて早々じゃが
助けてほしいんじゃ……」

Eno.922

あぁ、いや……、んん?」

色々がどう積み重なったら
改名という運びになるのか、
明らかに釈然としない顔をしている。

しかし、釈然としないながらも
どうにかそれを飲み込んだようで。

では、これからはタイマと――」

Eno.922

駄々をこねる」

そしてこちらは見事に飲み込まれなかった。
言葉の圧がいやに強い。

そういえば、ここが何処なのかも
まだ知らないのだったな。

そして、その“問題”というのも
一筋縄ではいかなそうだが……、
来ているなら迎えてやらねば」

そうして、言外にあなたへ頷く。

Eno.908

あ、ちなみにそちらが本当の名なんじゃ〜。
まだ生きたヒトであった頃のな。

銭田空とは、天地返しで
銭田家の弟として組み込まれた名。

最早かつての名を名乗る気も無かったのだが、
ちと心変わりした。
その方が、そちらに残してきた
クウとも呼び分け易かろう!」

そして、ぽよんと異形の手から離れ、
咲き乱れる花々の上に着地する。
白い花弁がふわりと舞った。

Eno.908

うむ。
この世界のことや、にいちゃんの駄々とかは、
進みながら話すとするかのう。

ちと距離があるゆえにな。」

ヒトデは弾みながら先導する。

距離があるとは言うが、
見渡す限りの白い花畑がどこまでも続いている。
地平線の先には空だけが広がり、
それらしき場所は見当たらない。

Eno.922

確かに」

異形はイバラクウ君とアンジタイマ君を
どう呼び分けるかについて、
肉屋さんと相談していたのを思い出した。

Eno.922

つまりは、
生を終えて霊となった所に天地返しがあって、
生まれ直したと思ったら
また霊に戻ったという訳か……。

果たして因果なもの――」

だ、まで言う前にぽいんぽいん草分けて進む
ボーダーヒトデタイマ君が目に入る。

か、可愛い……。

異形の胸に若干『このままでも良いのでは?』という
気持ちが萌して来た。

Eno.922

――そうだな。

仔細を詳らかにするにも、
順序というものがある。
其方のやり良い風に語ってくれれば
それで良い」

そうして、
タイマ君に続いて白亜の庭を歩む。

踏みしめる土は小さな命で満ちている。
見上げる空には眩い光の暈。

美しい空、美しい地。
それなのに何処か、寂しい道を進んで行く。

Eno.908

相分かった。

では、まずは……
辿った道のりを簡単に。

かの戦の終焉、影法師に席を明け渡したわしらは、
やはりというか、死の淵に立たされた。

そうして辿り着いたのは、
“地獄”と呼ばれるところじゃ。
死者が赴き、気の遠くなるような
責め苦を受けるという、あれじゃ。」

Eno.908

当然、にいちゃんは脱獄を図ったぞ。

おとなしく責め苦を受けるなどしたら、
みのりねえちゃんとの再会など
成し得ようもないからな。」

Eno.922

いつも思うが、亡者に鞭打つのが
仏と呼ばれる者の所業とは思えんな。

慈悲深さが微塵もないのだが」

異形は少し肩を怒らして腕を組んだ。

そして、それは……成功した?」

Eno.908

一筋縄では行かなんだ。
が、策を講じたからこそ今がある。

そもそも、あの地獄と呼ばれる世界に
真の意味での仏はおらぬに等しかった。

あの場において仏とは、
亡者の穢れを焼き切る焼却炉のようなもの。

それこそ、慈悲深さも何もない、
青き炎そのもの……」

青き晴天が、陽炎のように滲む。
白き花弁が、光の尾を震わせる。
踊る蛍が、火花のように舞い散った。

Eno.908

じゃが同時に、全てを禊いだまっさらな空気を、
新たな生命の源として
現世に送り出す機巧でもあった。

つまり、地獄の中で最も現世に近い場所。

いち早く現世への道を拓くために
にいちゃんは……」

Eno.908

自ら仏になることを、選んだのじゃ。

というかいろいろあったせいで、
ならざるを得なかったのじゃが……

Eno.922

気に入らん……」

ぽつり、呟いて。

Eno.922

気に入らんなそれは。

我々は全うした生命に意味を与える者。
後に続く者が生まれ落ちる時、
掌に受け継いだ幸いを握らす者。
それを……――」

Eno.922

そこまで言って、溜め息混じりに頭を振る。

いや……、良い。
ここで余所に文句を言っても仕方がない……。

ともかく、それで――」

そこで、一度周囲を見渡す。
しかし、あなたがそのままこの夢のような、
静止した世界を進むなら、
異形も構わずそれに続く。

葵は、何もかも、焼き払われた」

異形は苦しそうに続けた。

ならば、葵は今……」

Eno.922

無事……」

言い掛けて、また頭を振る。

無事ではない。
無事ではないな……。

だが、今まさに命が……、
いや、それも可笑しいか。

つまり、同じ魂を受け継いだ器が、
喫緊で消えようとしている……という訳ではないと
思っていて良いんだろうか」

Eno.908

燃え上がる紅の気迫に、星は静かに目を伏せた。

……遠い異界の話じゃ。

わしもまた、
それを拒んだからこそ
ここにいる。」

Eno.908

ヒトデは変わらず野花を掻き分け進んでいく。
未だ目先には花弁と晴天ばかりが広がっている。

そして、確かめるように言葉を紡ぐあなたを振り返り
力強く飛び跳ねた。

その点は、案ずるな!

にいちゃんは無鉄砲ではあったが、
ただ単に身投げしたわけではない。

器の欠片は、わしに託された。
そして、わしもまたおぬしに託した。

消えようとしているのではなく、むしろ逆じゃ。」

Eno.908

ここにくる前、
小さな葉が脇芽をつけるところを見たじゃろう。

あれは、天からおぬしのもとに落とした
にいちゃんの思い出の欠片。
それが形を変え、新たな何かを
芽吹かせたことに他ならない。

にいちゃんにとってかけがえのないおぬしならば、
時を育て実りをもたらしてきたおぬしならば、
何かきっかけを生み出せると思っていた——」

Eno.908

——事実、この景色は
にいちゃんが炎と消える直前に
描いていた絵画そのものなのじゃ。」

Eno.922

葵の……、思い出の欠片……」

見上げる、“あの日”と同じ空。
その中に、彼の何処かぎこちない笑顔を透かし見て。

Eno.922

取り戻してやらねば……。

何もかも燃えた、灰の中からでさえ」

知らず、両の手が強く握り込まれる。

Eno.922

あと余りにも綺麗さっぱり
まっさらになってて思わず手が出たらすまん

一応弟の手前。

Eno.908

はははは!
その意気じゃねえちゃん!
思う存分殴れ。

なんか恨み籠っとる。

呆けようが、うわ言を吐こうが、
無理にでも引き戻してやってくれ。

にいちゃんとて、おぬしを信じての
無鉄砲なのじゃからな。」

Eno.908

そしてヒトデは、果てしない景色の中に
小さな変化を認めると、歩みを止めた。

遠く、白亜に紛れてぽつんと、
黒い花が数本だけ伸びている。

Eno.922

其方ら、旅の途中で何があったの??」

Eno.922

そうして、余程酷い目にあったと思われる
タイマ君が歩みを止めれば、
異形もまた立ち止まって
その先を見遣る。

あれは……?」

Eno.908

まあわしの恨み言はあとじゃ。
まずはこの旅路を笑い話にしてやらんと!」

Eno.908

そして、遠くを見遣るあなたへ向き直り、
真剣な眼差しを向けた。

……あそこに、
あの花のもとに、

にいちゃんがおる。」

Eno.922

……解かった」

Eno.922

異形は一歩、また一歩と。
導かれるように光の園を進んで行く。

Eno.908

気をつけよ。

それなるは、にいちゃんにしてにいちゃんに非ず。
邪念より出づるとも、
心から仏を志し、至った者じゃ。

おぬしの働きで、新たな芽吹きによって、
何かが変わっておることを祈るが……」

ヒトデは、あなたの後ろ姿を
固唾を呑んで見守った。

Eno.908

異形が歩みを進めるごとに、風が騒ぐ。
惑う蛍が飛び交い、光が散る。

Eno.908



黒い花のもとには、
何かが白い花弁に包まれ横たわっていた。

身体中から野花を生やし、青い炎を纏う何か。

晴天と闇をかき混ぜた半身は、
胴から下が欠けている。
頭部は崩れ、表情は無い。

————」

あなたの姿を認めれば、僅かに左手で地を掻いた。
その薬指に、約束の証は無い。

Eno.922

タイマ君の忠言に、
異形は小さく頷き花の細波を行く。

そうして葬花に彩られた螺鈿のようなあなたを
草葉の中に見出したとき、
異形は静かにその歩みを止めた。

Eno.922

――其方が彼岸に枕するようになってから、
いつか其方の帰りし日には、
何を話そうかと、永い宵の中でいつも考えていた。

今までの事、これからの事。
荒行の先にある邂逅の奇跡について……」

あなたの飾り気のない掌の先で、
膝を折った異形の髪が、さらりと足元の草花を撫でる。

こうしてみると、
まさに生き仏と言った所か。

まるで、此方の子らの今際の際に、
何度となく最期の息を引き取ってきた事を
思い出すかのようだ」

Eno.922

――だが、
其方の場合はその反対で、
今こうして、此方の元へと帰って来た。

見送る者としてではなく、
迎える者としてここに居る。

その事をただ、嬉しく思う。
本当に……、良く、帰って来た」

Eno.908

異形から伸びた影法師が、
横たわる半身と重なる。
花弁は風に舞い、
小鳥の群れのように飛び立った。

否、それは小鳥となっていた。

花園に沈む影の上を、光の群れが回りだす。

……………ええ。

斯様に早く
巡り会おうとは……
思いませんでした。」

彩られる景色とは裏腹に、抑揚はない。
懐かしき声音とは遠く、物憂げで生温い。

Eno.908

私は、新たな見送る者として、
あなたという見送る者の、終焉まで連れ立つ。

これらに咲き乱れる花は、
我が供花に非ず。

遠くいずれ、
あなたのもとに供え、飾る為という、
切なる“僕”の願い。

……よく、覚えています。」

どこか彼方のように語る。

小鳥たちが甲高い笛を、
思い思いに吹き鳴らした。

Eno.922

楽園を言祝ぐ小鳥たち。

その歌声の中にあって、
目の前の生き仏から漏れ聞こえる声の、
熱を帯びないその響きが胸の底を浚って行く。

あぁ、確かにそう言った。
“共に並び立つ者で在りたい”と……。

ならば、共に行こう。
この美しい箱庭を抜け出して」

呟いた異形は、小さく手を差し伸べる。

Eno.908

差し出された手を見上げ、
かさりと黒い花弁が揺れる。

……どうか、二度と離されぬよう。
いえ……ずっと、離してはいませんでしたね。」

Eno.908

そして、青い火を纏った指先を、
あなたの薬指に輝く小さな青に重ねた。

かつての冷え切った手とは異なり、
微かな熱を帯びていた。

……悟りは未だ遠く。

再び毒を呑みましょう。
歓喜の頓用に縋り、苦を看過しましょう。
それでも構わないと、認めましょう。

嵐吹き荒んで鎮む物在り、稲光て実る物在り。
波立つ小舟にて、
共に、ささやかな"幸い"を。」

Eno.922

済まないな……」

青く染め抜いた掌へと、
確かめるように指を這わせながら、
異形は小さく呟いた。

其方はその生態として、
いつでも湧き上がる心の負債を
抱えて生きなければならないように見えた。

それを意志の力で捻じ伏せ続ける事の、
受くるべき辛苦とはどれ程のものか……。

分かっていたつもりだ。
分かっていたつもりだったからこそ……、
今の其方を見た時、こうも考えていた。

患難から逃れ得る未来があるなら、
それも定めて幸福であろう』と」

仮面の三眼がふっと消える。
そうしてまた強く瞬いて。

だが、此方は打ち寄せる辛苦に寄って立ち、
それでも歩み、不器用に笑う其方を愛したのだ。

だから――」

Eno.922

だから、
此方は、仏を妨げる悪神で構わない。

因業も、謗りも、
永い時の中でそれがどんなに高く
積み上がったとしても……、
それを負って歩んで行こう。

いつか裁かれる、その日まで」

重ねる手は強く、堅く。

横たわっていた空白を埋めるように、
温もりを湛えた手を包み込んだ。

Eno.908

……確かに私は、
この旅路で“幸福”に近づいた。

しかし同時に、この苦無くして
苦より逃れ得る幸福を知ることもないと。

それゆえにこそ、
苦渋に満ちた日々の始まりが、
生まれ落ちたその日が、尊き意味を持つのだと。

……ですから、この毒は、
言うほど悪しき物ではないのです。

そして、仏の道から引き返すことも、また……」

繋がれたその手を、しかと握り返す。

Eno.908

それに……

どうやら、
あなたの墓前を花で飾るだけでは
足りないようです。」

欠けた半身を補うように、青い炎が灯った。
その炎を中心に花々が崩れ、地には薄墨が流れ出た。

遠くいずれ、
あなたが奈落に堕ちようとも——」

天に雲が掛かり、白んでいく。
小鳥の声は遠のいて、
幻日は眩い光に溶けていく。

Eno.908

——その時は、僕も一緒だ。」

花園は濃霧の中へ。

幾重にも重ねた白絹が
視界を覆い尽くした。

握られた手の温もりだけが、
確かなものとしてそこに在る。

Eno.922

葵――」

雲の海へと落ちて行く世界の中で、
先程までとは違う、
懐かしい響きが胸を震わせる。

春の日のような温もりが、
いつか心に蔓延った霜を溶かして行く。

Eno.922

――おかえり」

何もかも茫々と白んでいく中で、
呟いた異形の足元から、
りぃん、と小さな鈴の音が響いた。

Eno.908

そして——

Eno.908

夢から醒めるように霧は晴れ、
景色は見慣れた部屋に戻った。

濃紺の帳は降りきって、
窓辺から差す僅かな星明かりだけが
異形の前に座する影を
ぼんやりと浮かび上がらせている。

Eno.908

ふっと、紙燭に再び火が灯った。
箱庭に潜る前と同じ、青い妖火。

その淡い光は今度こそ、
はっきりとその輪郭を映し出した。

Eno.908

——……」

Eno.908

ただいま、聳孤。」

Eno.922

静謐な青に包まれた部屋。

その淡い画布に描き出された人影は、
待ち侘びた笑みを湛え。

静謐な夜の内に、
軋んだ板間が鋭い音を放つ。

Eno.922

その間は一間か、一尺か。

時間という断絶によって
眩むほどに遍く横たわっていた隔たりに比して、
その距離の如何に取るに足らない事か。

けれど、
異形は、その距離を埋める暇も惜しがって。

四臂を広げ、待ち受ける男の胸に飛び込んだ。

遅い……という事はなかったと思う。

思うが……。

酷く……待ったような気がする」

Eno.908

倒れ込んでくる長躯を、
しかし男の肩より狭い背を、
両の手で受け止めた。

包み込むように、
仏より得た熱を分け与えた。

Eno.908

待たせて……ごめん。」

胸に埋もれた髪に片手を添え、
おそるおそる、幼子にするかのように撫でる。

ほんとは、片時も待たせたくはなかった。

でも、さすがに……簡単じゃないね。
黄泉がえりってのは。」

安堵を宿した拍動は、
あなたの耳元で緩やかに、
規則正しく脈を打つ。

Eno.922

当たり前だ……馬鹿

胸の中で呟いた異形は、
当て擦るようにその仮面を押し付ける。

しかし、背に回した腕は決して離さない。

そう容易く死者が黄泉がえって堪るものか。

だから、あれほど
此方の御霊で満足しておけと――」

Eno.922

いや、待て、
これは、まさか……」

小さく膝を折り、
面と逆の耳をその胸にそばだてた。

聞こえるは暖かな律動。
命の音。

Eno.908

…………

心音みたいに、聞こえる?」

仮面から覗く三眼を見下ろし、
少しだけ言い淀んだ。

それは、“炉”だ。

絵の具の毒で燃えて、
熱を指先まで届ける、仏の名残り。

人の真似事には、変わりないけれど……」

胸の奥に灯る青い火が、
命の音を模して、絵の具に熱を送り込む。

かつてその身を留め処なく濁らせていた毒は、
暖かさと混ざり合って鳴りを潜めていた。

Eno.922

また改めて死に直されたら
どうしようかと思った~~っ!」

それはそれで喜ばしいけども。

Eno.922

しかし……良いさ。
例え人の真似事であっても。

其方が其方のまま、
帰って来てくれた事。

それだけで充分だ」

そうして、確かめるように
その胸元に掌を這わし、
冗談めかして肩を竦めた。

冥界行で拾った割に、
火加減も悪くないようだしな」

Eno.908

あえっ、いや。
もうコンティニューは懲り懲り……

ちょっと機能を増やしたら
いきなり不安がらせてしまった僕の運命は!?」

少し毒素の割合が増えた(凡夫)

Eno.908

でも、そう!

ちゃんと帰ってきたし、
火加減もちょうど人肌ぐらいだし、
火傷しない灯りをすぐつけられるし、
肉は焼けないけど僕の毒素が減るから
調理中の混入リスクも減るし
なんかこう……僕らのいろいろな愉しみの幅も広がり……

仏に感謝ってことで!!

急に俗。

Eno.922

なるほど。
兎にも角にも連れ戻そうと思っていたせいで
さっぱり聞かずにいたが……」

顎に手を遣って、うぅんと呟く。

要するに絵具を蝋とし、
護摩を灯りとする人型の蠟燭、と
言った所か。

ただの紙燭でさえそれなんだから、
何だかめちゃめちゃ御利益がありそうだが、
ふいに火勢が強まって燃え尽きたりしない?
大丈夫?

Eno.908

まあ心配だよね。

でも今となってはもう、
そんな酷い火は燃やさないよ。」

胸元で拳を握り込んだ。

Eno.908

実のところ、ほんとに火勢が強まったら
怨嗟の火に反転する方が早い。

これ、ほんとは……
カクジャックの力が、負の感情が飽和した時に
出る火と本質は同じだからね。

火勢が強まるってことは、
まず毒が溢れかえるってことだ。

毒から生じたものを、
焼かれるような痛みとして耐え忍ぶか、
“然程悪くない”として受け止めるか……
その程度の違いでしかないんだよ。」

Eno.908

さっき、火傷しない灯りとは言ったけど、
むやみに火を直接触るのはよした方がいいかも。
受け取り方によっては熱くも冷たくもなると思うから。

まあ、今の聳孤なら平気だと思うけど……」

Eno.922

仏家が聞いたら腰抜かしそうな事
言いおる……。

しかし、
実際上の其方にとっては
増えすぎた毒を悟りとして“昇華”するのか、
怨嗟と化して“消費”するのか……。

それは、増えすぎたものの
均衡を保つという意味で、
それほど違いはないという事……みたいな
感じだろうか」

Eno.922

それから、青く燻る紙燭をちらりと
一つの眼の端に収め。

確かに、
其方と出会う前には溢るる瞋恚に身を任せた事も
有りはしたが……、
それは、酷く疲れる。

疲れる事はもうたくさんだ。

それに、其方が帰って来た今、
それを敢えてする意味ももはや無かろう」

Eno.922

後はまぁ、其方の話を聞く限り、
タイマの眼に毒でない範囲で
色々発散したり出来るようだし――」

Eno.922

あれ!
ちょっと待て!?

其方の弟ちゃんと帰って来てる??」

Eno.908

そんな感じ。
僕は結局、仏としても
偽物でしかなかったわけだけど……

あの決戦でさ、
聳孤が一足先に荒ぶるものを追いやったのを見て
僕も、見習いたいというか、
ちょっとぐらいは
肩の力を抜けるようになりたかったんだ。

せっかく、この先ずっと……
聳孤の隣にいるんだからね。」

Eno.908

それから、頬をほんのり染めるあなたを
熱に浮かされた瞳でちらりと見て。

Eno.908

出てきた弟の名で我にかえった。

Eno.908

やっと思い出したかおぬしら……

まあ、待ち望んだ再会じゃし、
水差すのもね。」

隅っこにいる……

Eno.908

あっ、わし邪魔?

まったく帰って早々お盛んじゃのう。
ごゆっくり〜。」

Eno.908

違う違う違う待ってタイマ行かないで!
こいつちょっと拗ねてやがる
全面的に僕のせいだけど……

Eno.922

何か気を使わせてごめん……」

思わず素の謝罪がまろび出つつ、
『何があったんだ?』と言いたげに
三眼が青年の方をじろりと見た。

Eno.922

第一、
其方をそう邪険に扱う訳がなかろう。

仔細を聞かないまでも、
其方が居なくば、
葵の帰還が成らなかった事は分かる。

あそこまで良く連れ帰って来てくれた。
本当に……ありがとう。

お陰でまた共に立つ事が出来るのだから」

そうしてちょこんと座るタイマ君をしげしげと見詰めて。

それが先に言っていた、
其方の生前の姿か?

少し親近感が湧くな」

Eno.908

ご認識のとおり……
タイマが頑張ってくれなきゃ
ここにはいなかったよ。
僕はもう、仏になるのに必死だったからね……

本当にありがとうタイマ。
いろいろ押し付けてごめん、ほんとに。」

Eno.908

ほんとじゃよね〜
もしみのりねえちゃんの前でも
『仏として地獄に帰る!』とか抜かしたら
ヒトデアタックくらわすとこじゃったわ!」

Eno.908

まあその点は安心したし、
わしとてわかっておる。
何よりも……わしがずっと見たかった光景が
ここにあるんじゃ。

みのりねえちゃんも、
にいちゃんを取り戻してくれてありがとう。」

Eno.908

そして、己の姿を見つめられれば
着物の袖をはたはたと揺らした。

そう、これが元祖わし!

この日本家屋にも見事溶け込む装いじゃろう。
……にいちゃんはちと浮いとるけど。」

Eno.922

あぁ、駄々ってそういう事?

安心しろ。
それは此方でも殴ってたと思う」

右手をぐっ、と握り込みつつ。

Eno.922

しかし……、そうだな。

長く思えた離別の時も、
この眺めを思えば惜しくはない。

荊の子らに繋いだ望みも、
我らの望みもここにある。
何かのために何かを諦めずに済む事は……、
やはり、良いものだ。

無茶もたまにはすべきかも知れんな?」

そして、『今回みたいなのは御免だが』と笑って。

葵にも着流しか何か見繕ってみるか?
体格も良いし似合うだろう」

Eno.908

拳を固める片割れたちに、男は戦慄した。
あまりにも頼しい。

Eno.908

だが、あなたが笑みを浮かべるのを見て、
ほんのりと口角を上げた。
あらためて、手にした幸せを噛み締める。

まあ、もうこんな無茶はしないけど
新生活の準備はしなきゃだから、気は抜けないよ。
特に美術屋ボーイとの邂逅は不安しかないし。
……幸い今は寝静まってるのかな?

着流しは、むしろ着た方がいいかもだ。
ファッションも差別化しておかないと
老けたドッペルゲンガー呼ばわりされかねない。」

Eno.908

じゃが見繕うって、当てでもあるのか?

最悪、にいちゃんが自力で描くって
手もあるとは思うが。」

Eno.922

神事に使う物品の一切は
此方の“付属物”として所有している。
つまりは浄衣の類いも例外ではないと
いう事だ。

こう見えて針仕事にも心得があるから、
仕立てて染め直せば
それなりのものは出来るだろう。

或いは何でもお取り寄せぼぉいに頼むという
手も有るし

Eno.922

それから立て切った戸口の方を
ちらりと一瞥して。

あぁ、流石にそろそろ一年も立とうという
時合にもなれば、
慣れない地でも図太く寝られるらしい。

ただ、やはり互いの助力は
必要不可欠なのだから、
“産石 みのり”に接近しない限り
そう対立する事も…………」

Eno.922

いや、
そもそも狭間での争奪戦を知らん者たちは
其方の仔細をもさっぱり知らんのだった……」

これほどの時間がありながら
何にも話して来なかったという事実……。

Eno.908

神事に使う物品の一切!?
それって山車とか大相撲とかも!?

期待の眼差し。

そういや以前、銅鏡とか出してたのう。
ねえちゃん、随分と大荷物だったんじゃな!」

Eno.908

というか、染め直しまでやるのは
もう職人さんなのでは!?
昔は全部自分でやってたのかなそういうのも。

でもそういうことなら僕は、
聳孤に仕立ててほしい!」

力強いおねだり。

Eno.908

そして、うっかり声音に
力が入ってしまったことに気づき、
戸口を見て息を潜めた。

あちらはしんと静まり返っている。

……確かによく寝てるみたいだな。

もう1年近くか……苦労をかけちゃったなあ。
ここでの生活に慣れるのに
精一杯だっただろうし、話す暇もないよね。

うーむ、美術屋だけでなく産石にも
驚かれる未来が見える。」

Eno.922

いくら分けても
神威が衰えないとかいう無理を
通すだけの事はあるだろう?

ただ、そういう一点物は
粗方後継に返してしまったからな。
そうでなければ、
力士までも見せてやれたかも知れん」

そうして悪戯っぽく笑い、
冗談めかして肩を竦める。

しかし、神輿を担ぐくらいの祭りなら、
そう遠くなく催せるようになるだろう」

Eno.922

それから快諾した青年に向き直り。

そういう事なら任せてくれ。

流石に染料の確保までは
手が回らないままここまで
来てしまったが……」

言いつつ、あなたの両手を取って
ぎゅっと握る。

きっと良い色に染まるだろう」

夫“で”染める気満々である。

Eno.922

伝える機会がなかったというのも、
理由としては確かにある。

ただ……、
話すならば其方が帰ってからの方が
良かろうとは思っていた。

“身代わりになった”と知れば、
きっと気に病まずには居られまい。
其方に似て、不器用で正直な男だから」

Eno.908

おお、神輿は行けるのか!?
憧れの山車行列とまでは行かずとも、
祭りを催せるとは!」

瞳はきらきらと。

Eno.908

ああ、なるほど!
僕の役目もあるわけだ。」

両手を包み込むように握り返す。

じゃあ、その時は采配を頼んだよ。
聳孤の仕立ててくれた着流し……
楽しみにしてるからさ。」

Eno.908

いやはや、いろいろ
楽しみになってきたのう。

せっかく帰ってきたんじゃ。
そうでなくてはな!」

少年は窓辺に駆け寄って、星空に笑いかけた。

Eno.908

男は窓辺ではしゃぐ少年を見て目を細め、
また、自嘲気味に笑う。

……“身代わりになった”、か。
まあ、それはそうだけど、
果たして僕のために気に病んでくれるかね。

侵略の影法師として生み落とされ、
侵略を知ることもなく敗北を喫し、
そして、その“見知らぬ敗者”に命を拾われたんだ。
ぶっちゃけ、世界一位と試合ったことはあまり話したくない。

でも、まあ……
事実を知って、何を思うかはあいつ次第。

ちゃんと向き合うとするかね。」

繋いだ手は、今もあたたかな熱を帯びている。

Eno.922

そう期待されると少し面映いが、
それに見合うものを用意出来るという
自負もまた有る。

祭り共々、
楽しみにしていてくれ」

そうして、両手を握ったまま、
嬉しそうな少年の姿に頬を緩める。

祭りを祝う事も知らぬとすれば……、
案外、此方より古かったりしてな」

Eno.922

しかし、視線を戻せば少し膨れて、
空いた二腕であなたの頬を突く。

またそういう事を言う。

しかし、
他でもない其方が言うのだから
きっとそうなのかも知れん」

Eno.922

確かに……、
恨み言の一つや二つ零れる事もあるだろう。

勝手に生み出され、
勝手に敗北し、
何も分からずとんだ苦労を背負いこんでいる。

だが“生んでくれるな”とは
きっと言わない。

此方らは彼方らの得たものを信じて
この道を来た。
ならばきっと、共に折り合って行けるだろう」

Eno.908

頬を突かれればくすぐったそうに肩を揺らす。

ふふ、ごめん。

そうだね……
銭田も産石もクウも、皆同じ場所に立っている。
とあれば、奴だけ目を逸らすことはしないだろう。

あなたの言う通り……
きっと、大丈夫だ。」

Eno.908

緩やかな時も、刻一刻とその秒針を進めていく。

ふと気がつけば、
折り重なる濃紺の垂れ絹が一枚、
引き上げられていた。

夜空に薄白が差し、星明かりは間引かれる。

……少し明るくなったね。

でもまだ、夜明けには
もう少しありそうかな。」

光を灯す紙燭と、積み上げられた枝の束。
男は手仕事の跡が残る囲炉裏端を一瞥して、
愛する人へと視線を戻す。

Eno.908

よし。
あいつらが起きるまでに仕込むか、朝ごはん!
今更眠れそうにないしな。

聳孤は休んでてよ。

番は……タイマがするしさ。」

Eno.908

しれっと押し付けやがったな。
まあいいけど!」

Eno.922

ん、もうそんな時間か……」

染め上がった絹布を検めていた異形は、
白んだ窓へと視線を移す。

Eno.922

いや、
しかし料理するとは言っても……」

何か訳有りの風であなたを見て、
しかし、すぐに『あぁ』と呟いて笑う。

Eno.922

其方の場合、
“普通でない”食材の方にも
通じていたのだった。

それなら……頼むとしようか。
普段の情熱からどんなものが出来上がるのか、
楽しみだな」

そう言って、壁の柱の一つに背を預ける。

Eno.908

そういや、僕の料理を聳孤に振舞うのは
なんだかんだ初めてだったっけ。

一仕事お願いしてる分、
元気の出るものにしないとね。」

あなたの隣に横たわる絹布を見て心を躍らせている。

まあ、任せて。
どんな食材があるかは
見てみないとわかんないけど、
否定の国の肉屋の本領、発揮するからさ!

じゃあ行ってく……」

Eno.908

体を庭の方に向けてから、あっとした顔をする。

あ、いけない。
忘れるところだった。

…………」

一歩踏み出した足を引き戻し、
柱に背を預けるあなたに歩み戻る。

Eno.908

視線が合うまで屈み、片手を伸ばし、
あなたの側頭に触れるかと思いきや、
そのすぐ後ろの柱に掌をそっとついた。

包み込む程に身体を寄せた末――

Eno.908

一瞬の静寂を。

Eno.922

ん……?

其方も見――」

Eno.922

言い掛けた二の句は継げず。

驚きの走った四つ腕には
忽ち力が籠る。

Eno.922

しかし、それも一瞬の事。

緩やかに回された腕は、
そっと青年の背へと寄り添った。

Eno.922

青い静寂の中で、
紙燭の芯の焦れる音が微かに響く――

Eno.922

鼻の先にあったあなたの顔が離れた時、
異形は、くてりと柱に背を凭れたまま
脱力してずり落ちていた。

よもやこんなに綺麗に
いつぞやの“お返し”を貰う事になろうとは……。

不意打ちを取ったのは此方だから
何も言えんのだけれども

Eno.908

そりゃもう。

帰ってきたらちゃんとするって
決めてたからね。
何せ、仕返しは僕の十八番だ。」

脱力した肩を支えつつ、冗談めいて笑う。

じゃあ、今度こそ行ってくるよ。」

Eno.922

そこ誇るとこかぁ!?」

Eno.922

ま、まぁ……、
別に構わないけども……

ごにょごにょと口の中で言いつつ、
あなたの言葉に肯う。

あぁ、皆の驚く顔が楽しみだな」

Eno.908

ふふふ」

やたら嬉しそう。

あ、ほんとに困る感じの仕返しはしないから一応ね?」

ついでに急に心配になる者。

Eno.908

そして気を取り直し、庭の方へと向いた。

僕も楽しみだよ。
待っててね、聳孤。」

そして歩みを進めていく。

おーい保管庫さん!

……いたいた!
預けてた道具、頼めるかな――」

物陰から何やら小さな御霊をひきずりだし、
慌ただしく去っていく。

柱越しに響く足音は、
つい先ほどまで死の淵に立っていた者とは
思えぬほどに、生き生きしていた。

Eno.922

室外へ向かう背中に小さく手を挙げて応え、
その溌剌とした足音に少し可笑しそうに笑う。

全く……、
さっきまで上半身だけになっていた者とは
思えんな」

Eno.922

それから、同じく部屋に残された少年へと
視線を移し。

兄の方はさっぱり心配なさそうだが……、
其方の方は大丈夫なのか?

向こうでは随分消耗していたろう」

Eno.908

……まったく元気なもんじゃのう。
いろんな意味で。

イチャ……の波動を察知して
息を殺していた体育座り少年は気配を浮上させた。

うむ、心配せずとも、わしも粗方元気になったな。
にいちゃんが回復した時の余波でもあったんかのう。

ねえちゃんがタコになった時の
気持ちがちょっとわかったよね。」

歩くのが大変だのなんだのとぼやく。

Eno.922

何かごめんね!?重ね重ね!」

Eno.922

しかし……、それを聞いてようやく安心した。

事が済んで、
自分だけ“一抜け”されたのでは
敵わないからな」

そうして改めて背の柱に身体を預け直す。

Eno.922

こうして安心してみると……、
ようやく枕を高くして休めるようだ。

いくら寝ずとも身体には響かないつもりだが……、
気骨には、些か……」

仮面の三眼が、朧げに揺らめく。

Eno.908

ははは。
仲良きことは好きかな。
気にせんで良いぞぉ!」

空気の読める弟!とピースする。

ま、わしとておぬしらを無事再会させて満足!
……と成仏できるほど、
素直な怨霊ではないからのう。」

Eno.908

そして、あなたの声音が途切れるごとに
少年もそっと声を潜めていく。

一年近く、
よう気張ってくれた。
子らを守ってくれた。
わしらを……待ってくれた。

かみさまといえど、
何でも耐えられるものではないじゃろう。

それを労る意味でも
今、にいちゃんが
とっておきを作っておるんじゃ。

……しばし休め、ねえちゃん。」

Eno.922

確かに、そう聞き分けては、
化けて出る事もなし、か……」

苦笑した口元の上で、
三眼の灯が落ちる。

Eno.922

何かあったら遠慮なく起こしてくれ。

それまでは、大人しく……、
其方らの厚意に……甘えるとしよう……」

そうして首をかくりと落とせば、
もうその後には、
胸を微かに上下させるだけになっていた。

Eno.908

やがて、下拵えを済ませ、
鍋を抱えた男が部屋に戻ってくる。

Eno.908

静かに俯くあなたの姿を認めると思わず、
具合を悪くしたのかと顔を覗き込んだ。

しかしすぐに、
眠りに落ちただけと気づいた男は……

Eno.908

羽織っていた上着を脱ぐと、
微かに上下する胸を、そっと覆い隠すのであった。

Eno.908



起こさぬよう、
囲炉裏端に座る。

かき分けた灰から赤い光が覗き、
焼べなおした薪が徐々に爆ぜる。

古びた鍋の中で泡が弾け、
煙と共に、空が薄く染まっていく。

守るべき人たちが起きるまで、あと少し。