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ようこそ"地獄"へ

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銭田は目覚めました。

目覚めたということは、今まで眠っていたということです。
手に力を入れると丸い砂利に指が埋まって、水の流れる音がします。どうやら河原で倒れていたようです。
はっとして顔を上げると、目の前には変わった姿の動物たちが覗き込んでいます。

あ、起きた?おかえりタイマくん!」

意識ははっきりしてそうですね。立てますか?タイマさん。」

……は?」

呼び掛けられた『タイマ』なる人を探して辺りを見渡しますが、それらしき人は見当たりません。

忘れてしまいましたか?
あなたが"人間だった頃"の名前ですよ。
あなたのお兄さんが教えてくれたんです。」

……は???」

何が何だかわかりません。
銭田は人違いだと言いましたが、動物たちはちっとも聞き入れてくれませんでした。

ふと、弟の姿がないことに気づきます。

……クウは?」

動物たちに尋ねましたが、心当たりはないようです。
クウの名を呼んでも答えませんし、気配もありません。
ですが、クウは銭田の左脳に取り憑いた幽霊です。銭田の頭髪の左半分が空色に染まっているのが、その証です。
空色の髪が今も健在ということは、必ず近くにはいるのです。

クウってのが子どもの亡者なら賽の河原で会えるかもしれないね。」

さ、賽の河原?」

賽の河原とは、死後の世界にあるという河原の名前です。
後ろを振り返れば、広々とした川が流れています。ひょっとしたら、三途の川なのかもしれません。

まさか僕ほんとに死んじゃった!?」

かわいそうに、まだ受け入れられないのですねえ……」

あはは、よくあることだろうさ。
そのうちわかる。あんたも賽の河原で石ころを積んで積んで積みまくるんだ。
獄卒にぶっ壊される頃には、もうお母さんもお父さんも居やしないって、きちんと思い知るんだよ。」

……え、僕も賽の河原に行くの?」

そうだけど?」

確か賽の河原って、死んだ"子ども"が行くところじゃなかったっけ?」

"子ども"だろ?」

何で!?
僕のどこが子どもなんだ!!
確かに40代にしては落ち着きがない気はしてるけどさすがにそこまで子どもじゃないというかあのちょっと聞いてる???」

これが年頃のガキってやつかい。
自分がガキだって認めない奴が一番ガキだからね。」

まあまあ、可愛らしい盛りじゃありませんか。」

待って何これドッキリ!?カメラはどこだ!
出てこい八木!八木この野郎!」

おおよしよし元気ですねえ。
娘を思い出して感慨深くなっちゃいますねえ。」

うおおやめろ!!頭を撫でるな!!!」

動物たちが嘘をついている様子はありません。
皆して銭田を"タイマという子どもの亡者"だと思い込んでいるようです。

動物たちと話すうちに、彼らは地獄で働く獄卒であることがわかりました。
やはりこの場所は三途の川で、地獄の端に位置するようです。
亡者が送られる場所は地獄を治める十人の王の裁定で決まるようで、よほどのことがない限り覆すことはできないといいます。
結局、銭田は亡者タイマとして賽の河原へ送られてしまうことになりました。
獄卒に手をひかれ、三途の川沿いに歩んでいきます。

あ、あのぉ。手は引かなくていいです。自分でついてくんで……」

いえいえ、はぐれて川に落ちたらかわいそうですから……
それに、知ってるんですからねタイマさん!
あなた可愛い顔して"脱獄犯"でしょう?だめですよ、逃げちゃ!」

可愛い顔……
何それ、タイマってのは脱獄犯なの?」

忘れたのかい?自分がやったことなのに?」

だから人違いなんだって……」

やがて、賽の河原に到着しました。

河原一面に小石の塔が並んでいます。迂闊に踏み込むと蹴っ飛ばしそうです。
それぞれ大きさはまちまちで、拳大の小石を積み重ねたものもあれば、小石というより岩を積み重ねたもの、つまようじほどの小さな塔もあります。
塔の大きさが異なるのは、そこにいる子どもたちもまちまちだからでした。
人の子もいれば仔犬もいます、おまけに蝶か何かの幼虫まで這っています。
もしかしたらもっと目に見えないような小さな生き物までもが砂粒を積んでいるのかもしれません。

何だこれ……?」

銭田は怪訝に思いました。
一般的に語られる"地獄"とは、人が思いを馳せる、人のための世界です。
宗教画として描かれる賽の河原も普通は人の子だけがいます。
しかし、目の前では芋虫までもがせっせと小石を積み重ねているのです。

そういえば、クウは……」

賽の河原を見渡しますが、弟の姿は見当たりません。
だんだんと、河原にいる子どもたちの姿がクウの姿と重なって見えてきます。
クウは人の子の幽霊ですが、必ずその周囲に人以外の生き物の幽霊をいくつも引き連れていました。
そのいずれもが、この河原で石を積み上げているような幼い生き物だったのです。
河原を見ているうちに"ここに弟がいる"気がして仕方がなくなります。

それでも弟の姿はありません。
銭田は諦めたように溜息をついて、獄卒に促されるまま河原の一角に腰掛けました。

それではタイマさん。
これから毎日小石を積んでくださいね。
たまに獄卒が塔を壊しにきますが、それでもめげずに積んでください。」

あの……それって、いつぐらいまでやるの?
僕帰らなきゃいけないんだけど」

銭田が言うと、獄卒は神妙な顔をします。

……かわいそうですが、帰る場所はありませんよ。
あなたは死んでしまったのですから、もうどこにも帰れないのです。

それにタイマさん、あなたの場合は特別どうしようもありません。
賽の河原で小石を積み上げ続ければ、やがて刑期が終わり、神様が救いに来てくださるのが本来の流れなのですが……」

あんたのもとには来ないからね!」

何で!?」

そりゃあんた、脱獄犯だからさ!
地獄から逃げ出すなんてもってのほか!掟を破った奴には終身刑が加わるんだよ。
現世の罪を雪いだ後は、獄卒として働き続けるのさ。
あんたは地獄の歯車になるんだよ、ずっとね!」

冗談じゃないが!?
僕は帰るんだよ!妻が待ってるんだから!」

え、妻?その若さで?今時珍しいですねえ。
かわいそうに……でも、自業自得です。
まだ現世に囚われているようですが、そのうち忘れられますよ。

銭田は何を言われようと絶対に諦めたくありません。
見知らぬ亡者の罪を肩代わりするのも冗談ではありません。
それこそ脱獄すら辞さないと思います。

銭田は小石を手の中で転がしながら考えました。
三途の川を渡って地獄に来るのなら、逆走すれば現世に戻れるだろう、と。
思い立ったのなら即行動です。獄卒が帰った隙を狙い、川をよく観察しました。

渡れそうな場所は3つあります。
ひとつは平たい橋、ふたつめは穏やかな浅瀬、みっつめは深く流れの激しい急流です。

小石を綺麗に並べ、三途の川の上面図を作ります。側から見れば小石を積む子どもに見えていることでしょう。

どこも人の目があるけど……」

橋の上にも、浅瀬にも、急流にも、今にも地獄に来ようとしている人々の姿が見えます。
橋は番人が見ているので正面突破は無謀です。浅瀬も見渡しが良く、誰かに声を上げられたら終わりです。
一方、急流にいる人々はほぼ溺れているも同然のようで、紛れたところでわからないでしょう。

泳ぎ切る自信はある。」

銭田にとって"呼吸"とは、人を装うための仕草でしかありません。身体が絵の具ですから溺れる心配がないのです。
それに、いざとなれば液体になったり、何かを描いて誤魔化したりできるでしょう。
見つからないよう気をつけながら、急流を進むことを決心しました。

並べた小石を両手で混ぜこぜにして、意気揚々と川へ繰り出します。

ところが、水に足先をつけた途端、背筋が凍るような不快感に襲われました。
真冬のような水温ですが、それだけではありません。
肉食獣に睨まれたかのように心臓が跳ね上がって仕方ないのです。
身体中が凍りついて、本能が進むことを拒んでいるのがわかります。
どうにか水底を踏み締めますが、足の裏が砂利に沈み込んでうまく力が入りません。

それでも気合だけで右、左と足を踏み出しました。
誰にも見られないように、足を滑らせないよう慎重に、深い深い方に進みます。

やっと首まで浸かりました。
流れが早すぎて、今にも横から押し倒されそうです。
ここからは足のつかない領域です。覚悟を決めて、砂底を蹴り上げます。

ドボン!

泡の大群が肩や胸に打ちつけて、深い水底へ張り倒されました。
一瞬の出来事です。天地はもうわかりません。

轟音が腹の底に流れ込んで、暴れる泡と水草で目が回ります。
縋る思いで水草を掴みますが、あっという間に拳をすり抜けてしまいました。

景色が急速に左へ引き摺られ始めます。流されているのです。
どうにか伸ばした右腕は尖った流木に抉られ、声にならない悲鳴を上げました。
さっきまで右腕の一部だった絵の具が水草の向こうへ吸い込まれるのを見送った直後、激しい衝撃と共に意識を手放します。

岩か何かにぶつかったのでしょう。

銭田は溺れ死にました。

銭田はその後、何事もなかったかのように目覚めました。ここは賽の河原です。
亡者が責め苦を受けて死んだ時は、涼風と共に復活します。
何度も復活する代わりに、亡者の身体は恐ろしく貧弱です。
風見鶏よりも振り回されやすく、寒天よりも脆いのです。
銭田はようやく、生前と同じに見える身体が、全く違うものになっていることを思い知るのでした。

それでも銭田は、一度死んだぐらいでは諦めません。
もう一度、三途の川に繰り出します。今度は浅瀬に挑みますが、獄卒に追いかけまわされ、流れに足をとられました。気づけば賽の河原です。
それでもめげずに飛び込んで、死んで、賽の河原で目覚めて……

銭田が三途の川と格闘する後ろで、せっせと小石をかき集める子どもたちがいます。
川に落ちた者がどうなるのか知っているのか、誰も銭田の行いに見向きしません。
小石の塔がひたすら積み上がります。悠々現れた獄卒が、それらを蹴飛ばしました。子どもたちは嘆いて、小石をかき集めます。

あははは!あんたたちはそうやってずっと苦しむのさ!」

河原には子どもたちの泣き声が響き渡るのでした。