銭田が賽の河原から去った後、地獄は大騒ぎでした。
無間地獄に大きな泥の塊が落ちてきたというのです。
亡者たちはもちろん、責め苦を担う毒蛇の大群も、中央に聳える七重の塔も、剣だらけの林も、みんな泥の下敷きになってしまいました。
しかも泥は毒に塗れ、亡者たちは悲鳴をあげることも叶わず、踠き続けています。
特に大騒ぎなのは、獄卒たちです。
「なぜシソウヤマ様はあんな怪物を無間地獄に!?」
「シソウヤマ様は真実を見ることができるお方だ。
何か考えがあるに違いない!」
獄卒たちが喚いていると、地獄中を鋭いハウリング音が引き裂きました。
どこからともなく放送が流れます。
『あー、あー、無間地獄の獄卒共!こちら、セキュリティ班!
仮称"クダメ泥"を食い止めるため、四門を緊急施錠した。
門外の獄卒共は、小地獄へ。
閉じ込められた獄卒共は、”無炉”の周りだけは安全じゃから、各々目指すように。
どうやら、クダメ泥は苦悩を無尽蔵に吸収して肥大するバケモンらしい。
亡者共が溺れとるせいか、今も量を増し続けておるから注意しな。
この後は、シソウヤマの指揮で焼却される手筈じゃ。
終わるまで各々耐え抜くように!
以上!』
大爆音は泥の上を漂うタイマの耳にも届きます。
「無間地獄?焼却!?
何でいきなりとんでもないことになっとるんじゃ!?
……アオイにいちゃん!!
アオイにいちゃんじゃろ!?」
タイマは泥を見下ろしました。
兄の髪色と同じ、2色の墨流し模様が静かに揺れています。
「にいちゃん!にいちゃん起きて!」
泥をべちべちと叩きますが、ちっとも波打ちません。
意を決して、泥に身を投げます。
泥は鈍い音を立てて跳ね、大きな魚のように小さな体を呑み込みました。
身体中に流れ込む苦痛の味。重くのしかかる迷いと憂い。
兄の名を何度も念じ、沈みゆく流れに身を委ねました。
「今日は一段と眩しいな。」
銭田はひとり立ち尽くし、顔を上げます。
空は薄紫や橙のシルクを光に向かって放り投げたようで、横並ぶ3つの朝日が光の輪を作っています。
幻日と呼ばれる景色です。
朝焼けに照らされた黄金の穂が、地平線の先まで覆い尽くしています。
「ああ……そうだ、もうじき収穫の季節だったっけ。」
風が耳をくすぐり、穂が波を立てます。
驚いた蛍が、辺りを飛び始めました。青白い光の粒が舞います。
「あれからかれこれ、何年経ったか。」
記憶を辿れば、妻と過ごした日々が昨日のことのように思い出されます。
自然と笑顔が綻びます。
「そう、聳孤におまじないをもらったな。」
一人でいる時は、常に田畑と向き合いました。
田畑にいると時々、妻に会えました。
そんな時は決まって同じ話をするのです。
『長い旅路を、無事で終われますように』
光差す三つの日の元、旅の無事を祈れば別れ、その繰り返し。
旅の無事を祈り、
旅の無事を祈り、
何年も同じ言葉を繰り返しています。
「いつまでも、新婚気分のような気がする。」
銭田は声をあげて笑いました。
「ああ、ちょうどいいところに。」
穂の波の中、よく見知った後ろ姿を見つけました。
妻です。
あたたかい 乳白色の長い髪が、穂とともに揺れています。
「たまには、少し驚かせてみようかな。」
ちっとも驚いてくれないことは知っていました。
なぜなら妻とは決まった話をするのですから。
旅の無事を祈るのですから。
それでも、その後ろ姿を見ているだけで心が爛々とするのでした。
風に紛れて忍び寄って、揺れる髪に手を伸ばして――
「つかまえた!!」
「うぎゃわらーーー!?
なんじゃ、なんじゃ突然!!」
「ん?」
「あれ!?」
「にいちゃん!その声はにいちゃんじゃな!?」
「あ、あれ……クウ?いや、タイ……マ?
今までここにいた聳孤はッ!?」
「なに寝ぼけた事言っとるんじゃ!
まだまだ帰るために必死こいとる最中じゃろうが!」
「あ、
夢……?」
銭田の視界からは、幻日も、己の姿さえも、あっという間に消えてしまいました。
どこからともなく、声を響かせることしかできません。
そこはタイマが辿り着いた泥の底。ぽっかりとした空間が広がっています。
天井は高く、壁は広く、沼と同じく闇夜と晴天を掻き混ぜたような斑紋です。
壁がぼんやり光るおかげで真っ暗ではありませんが、空間全体が不気味に蠢いています。
見回せば、人や様々な動物が身を寄せ合って震えています。
ここは沈んだ亡者たちの避難場所なのでしょう。
「なんじゃこりゃ……」
「それはわしがききたい。
一体何が起きたんじゃ、みんな無間地獄がどうとか騒いでおるが。」
「あ、それだ!無間地獄!
着いた?
堕ちてる途中で周りの様子が何も分からなくなっちゃってさ。」
「うーむ……」
タイマはかくかくしかじかと、クダメ泥に覆われた地獄の有様を語ります。
その瞬間、ズシンと重い音が響きました。
「うわぁ、揺れとる揺れとる揺れとる!
にいちゃんが動揺したからか!?
落ち着け!外が、泥が、えらいことになるんじゃ!」
「いやいやいやいやいったい全体どういうこと!?」
「今のにいちゃんの体は、ものすごーくでっかいってことじゃ!!」
天井よりも上、絵の具の中からざわざわと何かがきこえます。
それはだんだんと降りてきて、はっきりと人の声だとわかりました。
知らない男の声です。
声の主は、どぶんと天井を突き破って、我が物顔でタイマの横に着地しました。
「こらおぬし、地獄が壊れるわ!」
茶髪を1つに括り上げ、束の先をマフラーのように首にひと巻きした男。
鮫のように尖った歯が覗いています。
「誰!?」
男は腕を組み、少し首を捻ります。
「まあ、こう言うのがわかりやすいかのう。」
「獄卒の、別部。
おぬしらの”兄”じゃ。」
「え。」
「どうしよう、何もわかんない……」