兄なるものの出現に、タイマは肩をこわばらせ、目を見開いていました。
呼吸を整えてから、ようやく口を開きます。
「……にいちゃん。」
「え?」
「わしの、実の……血の繋がった、にいちゃん。」
「えっ!?」
「そう、タイマの兄ということはおぬしの兄でもあるってわけじゃ、弟なる泥よ。」
「どういうことだよ。」
別部は軽薄に笑い、しかしその鋭い瞳は到底なごやかなものではありません。
タイマもまた険しい顔のまま、別部を睨み上げるばかり。
再会を喜ぶこともなく、むしろ緊張が走ります。
「喧嘩でもしてるのか?お前ら……」
「そんなことより、このクダメ泥をどうにかしてほしいんじゃよね。
おぬしのお陰で地獄の施設がめちゃくちゃなわけ。
そうじゃろ?閻魔よ。」
視界の隅に、白銀の鬣が揺れました。
淡い光が、ゆったりと歩み寄ります。
シソウヤマです。
「げえ、DV神!!」
「超不遜じゃん。」
「だって、こいつのせいだよ!僕がとんでもないことになってるの!」
「あの程度、阿鼻の責め苦と比べれば詮無き事。
全て其方の業縁より出ずる報いであると知れ。
泥の肥大は落下の苦によるものではない。
其方自身の苦によるものである。」
「……どういうことだ。」
「其方、落下の折……暫く"夢"を見ていただろう。」
「なぜそれを?」
「我は亡者の真実を見る。
其方が愛する者の夢を見て、ここまでやり過ごしたことなど把握済みである。」
「覗き見か?悪趣味な奴じゃな。」
「何とでも言え。何と言おうと、真実は揺らがぬ。
其方の苦痛の正体は、其方が夢に見た『愛する者との幸福』にこそあるのだから。」
「……妻は関係ないだろ。」
「いいや、関係ある。
其方は、災禍を司る守護竜によって託された流星。
いずれ災禍として衆生を苦しめることを約束された存在。
永き時を妻と過ごした末に、辿り着く姿がこの"クダメ泥"なのだ。
其方とて、妻を苦しめたくはないだろう。
苦しみを与えてまで共に在ろうとは思わないだろう。
ならば泥の災禍よ、受け入れよ。」
「この地獄にて焼け落ちることが、其方にとって最善なのであると!」
空気が張り詰めました。
空洞はしんと静まり返って、亡者たちの視線は白銀の鬣に釘付けです。
やがて、斑紋漂う壁がゆったり揺れました。風がひと吹き、張り詰めた空気を押し流します。
「なるほど。
お前は、僕に妻を諦めろと言いたいわけか。
確かに、どんな穏やかな時でも悩みは尽きない。
誰と一緒にいようが、幸せだろうが、苦しみが潰えることはあり得ない。
認めるよ。
僕は文字通り"苦痛を糧"に生きる絵の具なのだから。」
「でも、だからこそ、僕の絵の具が増え続けるのは当たり前のことだ。
増えた分はいつも、老廃物と一緒に丸めてポイしてるんだからさ。
そこは普通の人間と同じだよ。」
「えーと、それはつまり……」
「糞か。」
「 」
「そう、う○こしないまま、落下し続けたら大変なことにもなるんだよ!
お前が僕を落としさえしなければ、こうはならなかった。
違うか!?」
「通常の人間の亡者はこのように無限に糞を溜め込んだりはせぬ!
このビックリ糞泥生物!!」
「汚ねえ。」
「まあ死屍糞泥地獄とかもあるし多少はな?」
「というかさ、お前本当に真実とか見えてるの?
僕がビックリ糞泥生物だと知ってれば、未然に防げたんじゃないの?
うっかり僕を人間の亡者と思って堕としたとかじゃないの?」
「見えている!
無論、其方が絵の具であることは知っていた!
だが想定外の未来や『何これ怖……』みたいなコンボが決まったりとかは知らぬのだ。
万能と思ったら大違いである!」
「ふーん?」
「本来、地獄の行き先は十人の王の裁定により決まるが、其方の存在は異常事態。
ゆえに我の独断で行き先を決めた……
速やかに事態を収束せねばならないのだ!」
「異常事態ほど独断で決めない方がいいと思う。
報連相大事じゃし。」
「うおおーーー!其方はどちらの味方だ!!」
逃げ場を失っていくシソウヤマは、太い四つ足で地団駄を踏みました。
いよいよ周囲の亡者たちが、困惑した様子で顔を見合せます。
「急に威厳がゴミクズみたいになったが大丈夫かこの神。
みんな変な顔になっとるぞ。」
「まあ、焦ってるんじゃないかな……いろいろと。
じゃあさ、地獄から出る方法を教えてよ。
ようは僕がここからいなくなれば万事解決でしょ?」
「焼却ではなく、地獄からの脱出を望むと?」
「僕を焼いたりなんかしたら、苦痛で余計に肥大するかもしれないよ。
また迂闊なことして悪化させたくないでしょ。」
シソウヤマはしばし押し黙り、再び空洞は静けさに包まれます。
いくら威厳が落ちつつある獅子神といえど、淡く光る白銀の鬣をなびかせ、目を伏せるその立ち姿は凛としていました。
亡者たちは息を飲みます。
やがて、シソウヤマは一言。
「……"解脱"しかない。」
「解脱?」
「仏となるということだ。
仏の境地に到れば全ての苦は消え去り、真の幸福に目見える。
そして地獄を脱し、涅槃に至ろう。
涅槃とは一切の苦無き世界。いかなる時空の壁も無く、自由となるのだ。
望みさえすれば、妻との再会も成し得よう。」
「ほんとに!?」
「待て。
苦しみが全て消え去るなら、にいちゃんは跡形もなくなるんじゃないのか?」
「其方は仏を無きものと申すか?
否。至るのは苦をものともせぬ心であって、消失ではない。」
「にいちゃんは、苦痛でしか生きられぬ生物じゃ。
苦を苦と思わぬことは、蓄えを失うのときっと等しい。
どうなってしまうかわからんぞ!」
「タイマ。」
「にいちゃんからもなんか言え!こいつ胡散臭すぎるんじゃ!」
「いや……
今、進むには……たぶんこれしかない。
どうにかここまでこれたんだ。僕は今更消えたりしないよ。」
「じゃが……!」
「大丈夫。
きっと、うまくいくから。」
「左様、うまくいく。
よし、こうなれば早速準備だ。
まずはこの場に沈んだ亡者を皆引き上げなくては。急ぐぞう!」
「……望みさえすれば、なァ。」