「其方、弟は同席しなくて良いのか。」
「集中したいからね。
ほら、解脱って言うからには、厳しい修行をしたりとかするんでしょ?」
「修行などしない。」
「え?」
「苦しいのは逆効果だと言ったばかりだろう。
其方にはすぐにでも地獄から立ち退いてもらわねば困るのだ!
そんな悠長なことできるか!」
「修行を悠長とか言うな。」
「もっと良い方法がある。ずばり、仏の道を辿るのだ。」
「仏の道?」
「生誕から入滅まで、その生涯を辿れば自ずと悟りは開ける。」
「具体的には、生まれてすぐに立ち上がり、7歩歩いてから『天上天下唯我独尊』と言う。」
「何て?」
「まず、生まれろ。」
「何て???」
「右手で天を、左手で地を指すのも忘れるな。」
「無理だよ!もう生まれてるから!」
「……四十九。」
「そなたが『生まれて』から、今日で四十九日だ。
生後49日!仏としては些か遅いがリカバリーはきく、だって赤子としてはすごいから!
さあ立て!7歩歩け!」
「お前は何を言ってるんだよ!華の44歳だよ!」
「それは現世における生だろう。
現世におけるそなたは44歳で死に、亡者として生まれ直した。
死から所定の地獄に辿り着くまでにかかるのは”49日”と決まっている。
今頃現世では親族一同、比丘でも呼んでいる頃だ。」
「比丘……
いやそれより、49日しか経ってないの!?数年は経ってると思ったのに!」
「いや、地獄時間で言えば2000年ぐらい経っている。」
「地獄時間って何!?」
「地獄と現世では時の流れ方が異なるのだ。更には、堕ちた地獄によっても異なる。
其方がいる無間地獄の刑期は、地獄時間で言えば64000年だが……」
「長すぎでは?」
「現世で言えば、349京2413兆4400億年。」
「?????」
頭がくらくらしてきたところで、銭田はますます重大な事実に気付きます。
これは無間地獄で過ごすたった1日が、現世においては果てしない年数であることを示しているのです。
きちんと換算すれば、無間地獄で1日過ごすごとに、現世では6400年が経つことになります。
(え?やばくない……?
このままもたついてたら……)
銭田は大慌てで、泥のような絵の具を揺り動かしました。
闇色にじんわりと浮かび上がる、空色の絵画。小さな人の姿。
1、2、3。
歩みを進めて。
4、5、6。
堂々と7歩目を。
「てんじょう……なんだっけ!?」
「ズコー!!!」
「ごめん忘れた!もう一回教えて!」
「『天上天下唯我独尊』!!
己は生まれたこの瞬間から、この世界でただ一人の尊い存在である、という尊い意味だぞう!!」
「てんじょうてんがゆいがどくそん!」
「生誕おめでとう!」
「で、生まれたらどうする!?」
「そなたが地獄の11人目の王となることを約束する。」
「何で!?」
「仏はかつて王族だったところを出家したのだ。
王族をやめるためにはまず王族になってもらう。」
「な、なんだかなあ……」
「そしてもうひとつ。
仏はかつて結婚していた。
妻と子を捨てるため、妻と子を持つのだ。」
「なんだとお!?」
「そなたは優秀だな〜あらかじめ捨てる妻を持っているなんて!」
「捨てる妻言うな。」
「……何で子はいないの?」
「デリケートな問題に触れるな。」
「仕方ない、子は弟を代用せよ。
どうせ血も繋がってないし、弟と言うには小さすぎると思っていたのだ。」
「殴っていいか。」
「やめろ。
そのように怒ってはいけない……これもすべては妻のもとに帰るため。
生涯はままならぬものなのだ……(キラキラ)(なんか尊そうなオーラ)」
「…………」
(よし、黙った!論破!)
「………………」
「………………」
「………………」
「い、いや、やっぱなんか言え。おーい!」
「……何も言うことはないよ。
それで、次は?王の座も家族も捨てればいいの?」
ぶっきらぼうに言い捨てる青い人型。
しかしシソウヤマの導きには逆らわず、粛々と仏の道を辿ります。
何よりも大切なものを置き去る頃、人型の胸には小さな火が灯っていました。
青白く光り、心拍のように震えては波打ちます。
それを見たシソウヤマは、瞬く間に顔を綻ばせました。
「お、いよいよやる気になってきたな!
見事である。その身に火を灯すとは、やはり其方には機運があった。」
「何これ。あつ……くはないけど、どういうこと?」
「悟りに近づいたということだ。
煩悩は積み上がる薪。
それを焼き尽くせば悟りは開ける。
やがて其方は、炎となるのだ。」
火が少しだけ大きくなりました。
徐々に勢いを増しているのがわかります。
人型は正直、実感が湧きませんでした。
悟りに近いと言われても、胸の内で膨れ上がるのは不安ばかりだからです。
「さあ、解脱まであと一息!妻のため、もう一踏ん張りだぞう!」
妻のために解脱を目指し。
解脱のために妻を捨て。
如何にも愚昧な坂道を、鈴の音は転がり続けます。