ごおごおと黒い渦が巻いて、波と波がぶつかって、空色の稲光が瞬きます。
無間地獄を覆った絵の具の沼は、もはや海と呼ぶべきものと化していました。
獄卒や亡者は、雲の上からその様子を眺めます。
「亡者共を引き上げたというのにこの有様とは、閻魔の奴、銭田に何をしとるんじゃ。
これでは外から焼く方がまだマシじゃろうに。」
タイマはいよいよ、胸騒ぎを抑えきれなくなりました。
雲の上で立ち上がります。そのまま海へ飛び込みそうな勢いです。
「やっぱりわし、アオイにいちゃんのとこに戻る!
アオイにいちゃんは亡者たちを守れと言ったが、やっぱり心配じゃ!」
一方、別部の視線は遠く、何処へと。
「……のうタイマよ。
銭田のやつ、何故おぬしを追い出したのじゃろうな。
あえてか、あるいは偶然か。」
「え?」
「"無炉"を見せてやる。
銭田が目指しておるという、"仏"をな。」
別部とタイマは、無間地獄の一角にある"無炉"の前までやってきました。
どういうわけか、ここだけ絵の具の海に沈むことなく、台風の目のように凪いでいます。
透き通ったドームの中で、青い炎が煌々と輝いています。
「これが、無炉。
亡者どもはそれぞれの地獄で罪を雪いだ後、ここに送られる。
炎が、人やいきものの形に見えるじゃろう。
それが”仏”と呼ぶべきもの。」
「こ、これが?仏?」
「仏は亡者の器に深く刻まれた業縁を焼き切るための機巧、最後の送り火。
仏に焼かれた亡者はまっさらな器となり、立ち昇る煙には恩恵を宿し、空気と共に送り出される。
新たな生命の源として、な。」
「焼却炉か何かにしか見えぬ。」
「それも誤りではない。」
「おい、涅槃とは!自由とは!如何なることじゃ!
ここからどうしてみのりねえちゃんと目見えようか!!」
「閻魔の奴、銭田を無炉の動力源とするつもりじゃろう。
この地獄から逃すつもりなど、毛頭ないじゃろうからな。」
「あの、くそ方便獅子……!」
「特別じゃ。こいつも見せてやる。」
別部はひらりと1枚の紙を取り出しました。
眼前につきつけたのは、写真です。
「な、なにこれ。」
「とある獄卒が撮った極秘写真じゃ。写ってはならぬものが写っておる。」
「シソウヤマが……」
「2人。」
「どこぞのテーマパークじゃないんじゃぞ!?」
別部は薄ら笑顔のまま。
タイマは徐々に肝が冷えてきて、しどろもどろに口を開きます。
「な、なんじゃその顔は……」
「そもそもおぬし、ここが本当に"地獄"と思っておるのか?」
「えっ」
「地獄道とは、『人』の赴く道。
賽の河原は見たか?
人の赤子のみならず、畜生のガキまでもがせっせと小石を運んでおる。
地獄でも同じく、畜生までもが苦渋を味わい裁かれる。
おぬしとてそうよな。
幾つもの生涯、ヒトとして生まれたことも1度はあったが、その他は何度も畜生の道を歩んだはずじゃ。
最後の生涯は、何に生まれた?」
「……にわとりの、たまご。」
「ここが真に地獄であったならば、ひよこは来ぬ。」
「じゃあ、ここは、何なんじゃ?」
「ここは――」
「ゴミ処理施設じゃ。」
「現世では、数多の移り変わりを"意"として蓄える。
それらはあらゆる脈によって流れ、留まり、後世に影響を及ぼす。
わしらにとって最も身近なのは……霊峰イヅカ。あれも意を蓄える山のひとつじゃな。
「ときに、意には良くない流れというものが混ざる。
大なり小なり崩壊を積み重ね、恩恵の裏にある犠牲もまた数知れず。
折り重なった滅びの因子は、いずれ世界の存続をも揺るがしかねない影響力を得るが……
そうなっては困るからな。
世界そのものを滅ぼさぬためには、余計な穢れは捨てなきゃならんわけ。」
「えーと、それってつまり……」
「糞。」
「またかよ。」
「ゴミとも言う。」
「ゴミ……」
「そう嫌そうな顔をするでない。
それらのゴミを回収するために作られたのが、生命……
"魂"という概念なんじゃから!」
「魂は器。
意を蓄える容器。
世界という巨大な器が壊れぬよう、生命という脆い器で穢れを掬い上げ、この処理施設で焼く。
現世に生まれた者が死して地獄に来るのではない。
地獄から現世に、ゴミ袋として送られとるんじゃ。
どいつもこいつも、満杯になって帰ってきとるってわけ。」
「ご、ゴミ袋……
じゃあ、この無炉というのは、真に焼却炉なのか。」
「そうじゃな。
罪やら罰やら救いやら。ぜーんぶ既存のシステムに殻を被せただけの欺瞞!
たまたま処理施設の仕組みが"地獄という人の語り草"に似ていたから
テーマパーク的にちょっと借りておるだけじゃ。
その方が楽しいじゃろ?」
「楽しくねえ!
延々と石ころ積みまくれとか、何千年かけて地獄に堕ちましたとか言われて楽しいやつがどこにいるか!」
「えー。
ま、最近は反抗的なゴミ袋が多いから脅し文句的な部分もあると思う。
現世への未練がどれ程の物であれ、途方もない時間がかかると知れば諦めざるをえない。
気絶しとったら時間なんてわからんし、楽ちんな時の5分と、死ぬほど苦しい時の5分ではまるで長さが異なる。
どれも何かと理由をつけて、ゴミ袋共を黙らせる方便なだけじゃ。
本当にそんなに時間かかっとったら、処理効率悪すぎてクソシステムじゃからのう!」
「結局クソ方便ばっかじゃん。
というかにいちゃん、わしにそんな内部事情ぺらぺら話していいのか?
コンプラ的に!」
「あ?
だっておぬしいずれ獄卒になるじゃろ?
脱獄者は極刑なんじゃから、内定者を相手にしてるようなもんじゃ。問題なし問題なし。」
「ところで、おぬしこそいいのか?
"兄"のもとに行かなくて。」
別部が指し示す方へと振り返れば、海の方で、煌々と青い炎が立っているのが見えます。
無炉の炎と同じ色です。
「アオイにいちゃん!?」
「ははは。あれも勤勉な弟よな。
……おっと。」
タイマは弾かれたように駆け出しました。
別部はその腕を引き止め……
「タイマよ。
何故そこまで『再会』に拘る?
銭田と妻を再会させることが、おぬしにとってそこまで利と言えるのか?
短命の枷を拭い去るには……いや、『兄と共に生きる』という意味では、
この地獄にて、獄卒として、悠久の時を味わうのも悪くはないはず。」
別部は随分と穏やかな声音で、誘うように語りかけます。
鮫のような歯は隠れ、幾許か柔らかく目を細め、笑顔からは軽薄さが消え去りました。
どういうわけかそれは、遠い面影を思わせるものでした。
タイマは一瞬息を呑みますが、かぶりを振ります。一際強く、叫びます。
「否!!
わしが望むのは、今度こそ裏切らせぬことじゃ!
『必ず帰るという約束』をな!」
「――――」
「――そうか。」
突如、タイマの眼前に黒い軌跡が一閃。
華奢な腕を捕らえた別部の手は大きく膨れ上がり、黒い羽毛で覆われました。
全身濡羽色の異形、裂けた口角を上げ、獲物を付け狙う瞳。
刀のように鋭い大爪が、タイマの胴や手足を裂きました。
切っ先は確かに幼い肉を捉え、内側まで抉り込んで見えます。
しかし、手応えはありません。
耳に飛び込むのは、風を切る音だけです。
手中にあったはずの華奢な腕は、青白い稚魚の群れとして霧散していました。
小さな身体は羽のように舞い上がっていました。
甲高い声は、宙から聞こえます。
「ッ……戯けたことを!
にいちゃんこそ、何故そこまで『わしをその手で斬ること』に拘る?
地獄に居残り、首を狙われ続けるとかまっぴらごめんじゃな!」
「おっとぉ。
何じゃまた妙な身体になりおってからに。ハハハハ。」
猫のようにしなやかな足取りで着地したタイマは、青白い稚魚の群れを引き連れ、一目散に青い炎の海へと駆けていきます。
獲物を逃した大爪は行き場を失い、残心を解いた黒い獄卒は鼻で笑いました。
「……振り返りすらせんわ。寂しい物よのう。
最早あれも、わしの弟でありながら、わしの弟だけとは言い難い。
ならば今度こそ斬ることも叶おうと思ったが……腐っても弟は弟か。
しょうがないのう。」
黒い獄卒は楽しげに肩を震わせ、人ならざる得物を納めました。
「さて、弟どもよ。
わしに言えたことではないが……」
「己が意を、履き違えるなよ。」