「……静かですね。
あれほど不安や恐れに塗れていた心が乾ききったよう。
望まなければ、叶わぬ願いはない。
動かざるものに、立ちはだかる壁はない。
そこにあるものこそが……
幸福。」
「其方は実に優秀である。
この短時間でここまでに至ろうとは。
さあ、あとは沙羅双樹のもとで入滅するのみだ。」
「……否、まだか。
其方、まだ捨てきれてはいないな。
妻のことを。
致し方なかろうな。
指輪を捨てたところで、心の底から諦めるのは容易くはない。」
「………………」
「諦める方法を教えてやろうか。」
「祈るのだ。
其方の思いを我に託せ。
我は地獄にも、現世にも赴く。其方の言葉を、其方の妻に届けられる。
我は衆生の救いを望む者。祈りに耳を傾ける者。」
「我が真の姿は……”諦聴”也。」
「このままでは其方の妻は永遠に其方を待ち、燻り続けるのみ。
それではあまりに哀れなことだ。
其方は仏になったのだと伝えさえすれば、妻もまた其方を諦めることができよう。
新たな道が開けよう。
妻の幸せを真に願うならば……」
「それは、本当に私やあなたが渡すべき引導でしょうか?
彼女が私を諦め、新たな道に進むかは……
きっと、彼女が見定めること。」
「それに、シソウヤマ。あなたは勘違いをしていらっしゃる。
私はいずれ、彼女にも会いに行くつもりです。
この地獄で苦しむ全ての亡者を、救った後にはなりますが。
衆生の幸福を願うなら、『妻であった者』の幸せもまたそこに含まれるでしょうに。
捨てるべきは不平等な契りのみであって、彼女のことをも捨てることにはなりません。」
「其方が赴かずとも、我に託す方が早いぞ。」
「急いても事は為せませんよ、シソウヤマ。
あなたとて、先に赴くべき場所は溢れるほどあるでしょう。」
「…………」
「案ぜずとも、私の思いに偽りはありません。
私は、仏の炎となる……揺らぎは無い。
して、上から我が『子』が来ています。
彼と話がしたいのですが、よろしいですか?」
「私と彼は一心同体。
断ち切るべきは、彼の執着です。
さもなくば、この業縁を終わらせることはできないのですから。」