タイマは泥の底を目指しました。
そこは以前よりも深く、以前よりも明るく、泥中なのに空がありました。
空は薄青や黄のシルクを光に向かって放り投げたようで、横並ぶ3つの朝日が光の輪を作っています。幻日と呼ばれる景色です。
底に広がる芝生の上で、白い花がきらきらと咲き誇っています。風に舞うように、青白い蛍が踊っています。
「アオイにいちゃん!」
芝生に降りたつと、生暖かさが爪先から脳天まで駆け巡りました。
よく見れば、芝生や花は青白く揺れる炎です。蛍は巻き上がる火の粉です。空と幻日は、炎に照らされ煌々と輝く天井です。
慌てて足踏みしますが、火傷する気配はなく、ぬるま湯のような温もりがあります。
安穏な炎で描かれた欺瞞の園。
タイマは見回して、兄の声を探しました。
向こうに揺れるのは、白銀の鬣――
「シソウヤマ!」
「おや、仏の『子』ではないか。其方も救いを求めてきたのか?」
「ハア?おい、アオイにいちゃんはどうした!今すぐ返してもらおうか!」
「返すなどと、人聞きが悪い……」
少年と獅子神の横で、何かが蠢きました。
そして「騒々しい」と一言。
吐き気を催すような生ぬるい声。
重く硬い水音が、規則正しく這い寄ります。
「――――」
闇夜と晴天を混ぜ合わせた2色の人型。
粘性の身体はあちこち崩れ去って、青い炎が吹き出しています。
身体の芯から表に向かって花々が咲き誇り、一本の花束のようです。
白百合、白菊、白カーネーション……よく見れば、人型が歩いた跡にも白い花が綻んでいます。
白い花畑の中、崩れた双眸を覆うモミジアオイだけが、真っ黒に異彩を放っていました。
人型はタイマの姿を認めると、口元だけの柔い笑みを湛えます。
異質な空気に、タイマは思わず後退りします。
「だっ……誰じゃおぬし!」
「……"銭田葵"。
そう不安げな顔をせずとも、私はいつもどおりですよ、我が『子』。」
「どこが!!??」
「驚くのも仕方はない。
彼方こそは仏の道を辿りし銭田、すなわち……」
「仏田なのだからな!」
「おぬしは黙っておれ!!」
目の前の存在は、兄とは似ても似つかぬ姿をしています。
ですが、この泥中にいるということは、そうなのでしょう。
タイマは目を見開きました。
微かではありますが、兄弟としての繋がりを肌に感じます。
これは確かに兄であると、両の拳を握り締めます。
「そうか、おぬしがアオイにいちゃんか。
イカれた格好しおって!
なぁにが仏の道じゃ!
わしはこの目で見たぞ。この地獄の仏が仏に在らずということを!
涅槃など、みのりねえちゃんに会えるなど、全てそやつの方便じゃ!
自由などない!仏とは無炉!亡者の魂を浄化し、見送るための焼却炉!
見よ、今そこらじゅうで燃え盛る火がその証拠じゃ!
にいちゃんは今、この火となろうとしているのじゃ!」
人型は口元に笑みを湛えたまま、そしてようやく頷いて。
「知っています。」
「えっ。」
「愛する者のもとに帰るため、解脱する。
それがそもそも破綻していた。」
「苦しみから逃れるには、愛する者から離れなければならない。
あらゆる苦しみから衆生を救うため、私は一刻も早く解脱せねばならない。」
「愛する者への執着は幾重にも、薪として降り積もる。
瞋恚の薪が枷となる。
もう、お分かりでしょう。
恐れ、憂い、悲しみ、あらゆる煩悩……
それらは愛する者から生じるのです。」
に火を灯し 怒りを燃やし続け
炎に囚われ
「煩悩は積み上がる薪、全て焼き尽さねばならないのです。」
燃え盛る火群 鎮めなけれ
差し出す左手の、薬指には何もありませんでした。
約束を示す指輪が、どこにもありませんでした。
「……………!
貴様ッそのような戯言を、受け入れたのか!!」
人型は笑みを崩さずに。
「それが、みのりねえちゃんへの裏切りだと知ってのことか!!」
「棄恩の念、ひとつ道を志すにあたって必ず付き纏うもの。
裏切りといえば、そうでしょう。志すためには必要なこと。
ただ一時、ただ一人の悲しみで立ち止まるより、もっと多くの救いを求める事にこそ意義があるとは思いませんか?」
タイマは両の拳を握り締め、歯軋りします。
「どうかよくお考えください。
私が真っ先にかみさまのもとに向かうということは、地獄で苦しむ亡者を見捨てる事なのです。
それもまた、亡者たちへの裏切りだということを、忘れてはならないのです。
ゆえに私は、無炉となる。
何もかみさまを見捨てるとは言ってないのです。やがて巡り会うこともあるでしょう。
会えずとも、私が見送った誰かが、彼女に良き何かを与える日が来るかもしれない。
繰り返せば、繰り返せば、いずれは恩恵と……」
「何年待たせる気じゃ!見捨てるのと変わらんわ!!
みのりねえちゃんは黙っておぬしを見送った。
それがいったいどれほどの事か、忘れたとは言わせんぞ!
おぬしが去り際に何を言ったか、己の胸によくききやがれ!」
「人の心は移ろいゆく。永遠などはあり得ません。
別れも、崩壊も、いずれは受け入れる時が来ます。
かつてかみさまも、そうだったでしょう。
あなたも、そうではありませんか?
この地獄において、『実の兄との再会』をまるで喜びはしなかったあなた。
生前、かつては、それを強く望んだのではありませんか?
あなたの願いは、何処へと失せたはず。」
「……かたちを変えただけよ。」
「手繰る業縁は糸の如く。今なお幾重に絡んで離さぬわ。
この願いは消えもせぬし、終わりもせぬ!!」
「ならばここで、焼き尽くします。」
両者は睨み合います。
徐々に火の揺れは激しく、天は青く稲光り、火の粉は小ぬか雨のように頬に押し寄せます。
それでも激しさを増すのは見た目だけで、あたたかいものが喉にじっとり張り付くばかりです。
「タイマよ、吠えたところで変わらぬ。
仏は妻の元へは帰らぬ。もう離れたのだ。
そして仏の『子』であるそなたともまた、離れたのだ。」
「さっきから、子、子、としゃらくせえな!」
「『弟』じゃ。
わしは銭田葵が弟。銭田タイマである。
離れてなどやらぬし、みのりねえちゃんからも離してなどやらぬ。
人を勝手に子呼ばわりするでないわ!」
「人を勝手に兄呼ばわりしてる奴が何を……」
「何か言ったか!?」
「いいえ。」
「ですがあなたは確かに我が『子』だ。
あなたは我が破るべき束縛なれば。
死してなお死を認めず、朔の狭間を揺蕩う罪人よ。
あなたばかりが終焉を否定し、一つところに留まろうなど、許されざること。
改めねば、私はあなたの首を落としてでも火を放つほか無い。
どうか、私のように『あたたかな炎』になりなさい。
教えを乞うて、私と運命を共にするのです。」
「断る。」
「不憫で仕方ありません。
あなたの在り方では、不幸は、悪しき業縁は終わることはない。」
「上等じゃ。」
「苦悩に満ちた日々を終わらせたいとは思わないのですか。」
「思わぬ!!」
「問答は、無用と。
……シソウヤマ、話は終わりました。
もうお行きなさい。
どうか、全てが終わったのち……無炉へ導いてください。」
「承知した。
後のことは任せるが良い。」
シソウヤマは鬣を揺らすと駆け出し、炎が巻き起こした上昇気流に乗って、泥の上へと昇ってしまいました。
小さくなっていく白銀を、タイマは歯軋りしながら見上げます。
「にいちゃんがちっともわからぬ!
何故そこまで無炉になろうとする?
語らぬならわしは永遠に納得せんぞ!!
例えおぬしが炎として散りゆこうが、そのひとかけらを必ず拾い上げてやる。
もろともであるならば、わしの方から引き戻してやる。
解脱などさせてやらぬわ!!」
「そこまで言うのなら、本気で抗うことです。
この炎を受けてなお、立っていられるというならば、示してみることです。
あなたの怨念が、それ程の物であるということを。」
「ハッ……わしを焚きつける気概はあるってか?
ならばなぜ!己の力で抗おうとせぬ!
この旅路はわしの物ではない。にいちゃんの物じゃろうが!
地獄を丸ごとぶっ壊しでもしてみろよ!
今のにいちゃんには、それだけの力があるかもしれんぞ!」
「いいえ。
これ以上この地獄を傷つければ、亡者たちはどうなりますか。
きっと、地獄を見るより酷い目に遭うでしょう。」
「あくまで亡者どもを優先するのか!
それでみのりねえちゃんと二度と会えずとも良いってのか!」
堂々巡りの押し問答。
人型は押し黙ります。
いつの間にか、欺瞞の園はすっかり姿を変えていました。
生え揃っていた芝生は、鬱蒼とした水草になって伸び放題です。
青白い蛍だったものは、小さな泡や小魚として踊っています。
頭上では光の網がゆらゆら波打って、煌くレースのカーテンが降りています。
(……?)
『水底のようだ』
タイマがそう思う頃には、不思議と肌寒さを覚えていました。
暖かったはずの炎は今や、肌に染み渡る涼やかさです。
よく目を凝らせば、確かにそれらは炎や火花でできています。
目を細めて見れば、ただ青く、青く、白んだ色です。
広がる晴天と同じ色。
光差す水底と同じ色。
無炉の炎と同じ色。
兄が持つ髪と同じ色。
影法師に明け渡した"魂"と同じ色。
炎がタイマの耳元を掠めて、前髪からぱきりと霜が落ちました。
タイマはハッとして、側頭部に手を添えます。
一瞬、炎が氷のように冷たく感じたのです。
唐突に、人型の口元が崩れ去りました。
ずっと笑みを湛えていた顔が、風穴となりました。
「……どこまでも強情ですね。」
炎がまばらに灯っては消え、灯っては消え、欺瞞の水底が崩れ始めました。
タイマは真正面から涼やかな風を浴びて、しかめっ面で瞬きを。
かと思えば踵に痛みが染み渡って、慌てて飛び跳ねます。いつの間にか、足元が黒く焦げ付いているのです。
「この『あたたかな炎』が……
あなたの凍てついた悲しみを溶かし尽くす。
茹だるような憤りを灰にする。」
タイマは息を詰まらせながら周囲を必死に見回します。
突き刺す冷たさから逃げて、粘り付く熱さから逃げて。
『あたたか』とは程遠く、仏の言葉ともちぐはぐです。
「にいちゃん!これはいったい……!?」
「終わらせましょう。」
「おい待て!!」
「私は____________________」
受け継いでくれるものさえあれば、それで。
「どういうことじゃにいちゃんッ!!」
タイマの叫びをかき消すように、炎が立ち昇りました。
うねるように人型を取り囲み、二本の炎柱が天を貫きます。
青白く聳え立つ炎の沙羅双樹、火の粉の花弁が白鶴の群れのように飛び立ちます。
『鶴林』
仏、入滅の刻。
美しい光景とは裏腹に、タイマの指先から背筋にかけて恐ろしい震えが広がりました。
痛みを伴う極寒が、稲妻のような轟音と共に押し寄せその身を引き裂くのです。
悲鳴を挙げた喉は灼熱の煙で焼け付いて、擦れ声すら出ません。首ごと切り落とされたかのようにも錯覚します。
誓いも、決意も、叩いた大口も全て張り倒す暴の炎。
身体の外から内から吹き出して、思わず転がって、火はますます纏わり付き、
息もできず、涙は凍って目も閉じられず、爛れた皮膚の上を溶かし塗るような痛み、傷み、悼み。
それは、"仏の救い"とは程遠く。
(これ、は――)
りぃん……
『青き炎とは何だろう。
ある者は、摂氏約1000度を超えた灼熱と言う。
ある者は、魂の具現だとか、怨嗟の怪火と言う。
ある者は、”仏”と言う。
では、悟りとは何だろう。
ある者は、煩悩を薪と喩え、それらを燃やす"炎"を悟りと言う。
とはいえ、こうも語られるだろう。
煩悩を"炎"と喩え、それらを鎮める力を悟り……と。』
(悟りは"炎"であり、煩悩もまた"炎"で、悟りとは……煩悩である?)
『では、この"炎"は何だろう。』
(……ああ。
よくよく考えずとも、"銭田葵"が燃やす炎など、ひとつしかなかろう。)
『その答えは。』
(わしの中にのみある。
また、”仏”やシソウヤマにとっての解は、紛れもなく『仏の炎』であるはず。)
『描き手が何と言おうと、受け手の思い込みで如何様にも意味を変える。
この炎に解は無く、またいずれも正しい。』
(それが、現実に根差す『絵画』ゆえの……)
『お前の思う”炎”の意味をよく覚えておくんだ、凶兆の星。
シソウヤマの瞳に浄玻璃鏡がある限り、僕は”仏”になるまで逃げられない。
“仏”になれば、悩みも、望みも、全てが凪いで、ただあたたかな炎となる。
望まなければ、動くことはない。動かなければ、立ちはだかる壁は無い。
そうして手に入れる自由は、求めた物とは程遠いけれど。
まずはそれでいい。
僕は無炉にて待つ。
舞い降りる器を禊ぐ。
新たな器が、現世へ発つのを見届ける。』
『つまり、だよ。
まだ挑むチャンスがあるわけだ。
三途の川が地獄の"入口"なら、
無炉は地獄の"出口"ってことだからね!』
りぃん……
蹲るタイマの眼前に何かが落ちてきました。
歯を食いしばりながら握った物は……
小さな小さな青い球体。
表面には、こう刻まれていたといいます。
『NEVER LET YOU GO』