過去に全てを置き去って、
寂しい世界から見守るだけの日々はもう、終わる。
僕があなたを呼ぶからだ。
ひとりの人として、同じ景色を見て、一緒に生きよう。
愛してるよ、聳孤。
あるところに銭田葵という男がいました。
男の身体は絵の具でできていますが、さも人であるかのように演じ、人のように暮らしています。
銭田にはよく似た影法師がいました。
影法師は人間で、銭田よりも若い青年です。影の中で自由に暮らしています。
銭田は影法師のことをずっと眺めていましたが、影法師の方からは銭田が見えません。
自分とよく似た絵の具の男がいることなど知らず、影の中を幸せそうに泳いでいるのです。
銭田は影法師を見ているとだんだん不安になるのでした。
僕は動く絵画だ。人のふりをした紛い物だ。
影法師は偽物のはずなのに、ちゃんとした人間だ。
もしかしたら、僕という存在はそのうち影法師に取って代わられてしまうんじゃないか……と。
ですが、その心配は杞憂でした。
冬のとある日、影法師は消えることになったのです。
精巧に作られた雪像も溶ければ水、蒸発してしまえば跡形もなくなります。
ただの夢幻と思い知らされるのです。
銭田は春の訪れを眺めながら安堵することでしょう。
影法師はれっきとした偽物だったのですから。
ですが、いざその日を迎えてみると、どうでしょう。
なぜか消えたのは銭田の方でした。
消えることを拒んだ影法師の魔の手が伸びたのでしょうか?
自分だけは生き残れると安堵したことへの罰でしょうか?
いいえ、違います。
これは他でもない、銭田の選択でした。
影法師が消えることを知っていたのは銭田だけです。
長らく影法師を見守ってきたせいか、彼をただの影とは思えなくなっていました。
何も知らずに消えてしまう影法師を哀れにさえ思っていました。
"人の紛い物"である銭田が、"偽物として作られた人"である影法師を否定できるわけがありません。
命惜しさと同時に"そういう選択をするもの"にもなりたかったのです。
ついに、魂と呼べるものを明け渡してしまいました。
12月末日。影法師は"本当の意味で"生まれたのです。
銭田はどうなったのでしょうか。
魂を影に明け渡した人が、ただで済むはずはありません。
死の世界へ行くことができるのでしょうか。
辿り着くのは黄泉の国、はたまた根の国でしょうか。
答えはどこでもありませんでした。
魂すら人に明け渡してしまった者に、行くべきところはありません。
ましてや彼は絵の具です。魂がなければ、ただの物言わぬ道具に過ぎないのです。
気がつけば闇しかありませんでした。
目を開けているつもりなのに、毛布の中で目蓋を閉じた時よりも暗いのです。
だんだんと、瞬きをしている感覚がなくなります。焦燥に駆られます。
いまさら後悔して踠こうとしても、腕や足が泥のような何かに巻き取られて動いている気がしないのです。
とっくに涙が出ているはずなのに、頬には何も伝いません。
掴みどころのない底無し沼へと、ただただ沈んでいくような感覚です。
ついに踠くのをやめます。
微睡むように身体が浮かんで、不思議と焦燥感も落ち着いていきます。
寒さや暑さは一つもありません。
どこか居心地が良いとすら感じます。
もうこのままで良いと思わされているようです。
「にいちゃんッ!!
いかん、いかんぞ、このままでは本当に消えてしまう……!」
周囲を纏わり付くように甲高い少年の声がします。幽霊のクウです。
銭田はとても霊感が強い男でしたから、幽霊であるクウは寄り付いて、義理の兄と慕ったのでした。
このクウにも兄と同じく影法師がいました。ですから、一緒に魂を明け渡したことになります。
兄弟揃って消えようという時でも、まだ諦めてはいません。
それでも、遭難して吹雪に埋もれたような人を揺り起こすのは難しいことです。
いくら寝たら死ぬと言い聞かせたって、雪を遮る山小屋もない、寒さを和らげる火種もない。
そうなればもう、意識を手放すことでしか楽になることはできないのですから。
何か忘れていませんか?
もうお休みですか?
遠くから声が響きました。
深い井戸の底に呼びかけるように、声の主は遥か上にいます。
「!!」
弟ははっとして上を見ました。
少年のような、少し掠れたような……とにかくよく知る声だったからです。
その弾みで、弟の懐から何か丸くて小さなものが転がり出ます。
りぃん……
「!!」
その音でようやく銭田も顔を上げます。
この小さな鈴は、とあるかみさまの落とし物でした。
弟が勝手に拾い上げて、隠し持っていたのです。
一見何の変哲もない鈴ですが、暖かいものが宿っています。
「聳孤……」
左手を見れば、薬指の付け根が淡い光を帯びていました。
かみさまと愛を誓い、契りを結んだその証です。
「……待ってて。今行くから」
伸ばした掌に鈴は落ち、溶け込んでいきます。
泥をがむしゃらにかき分けて、手応えがなかろうとおかまいなしです。
もとより己の命を投げ打つ気は1ミリもありませんでした。
影法師に命を与えた上で、妻と再会して幸せを築く。欲張りな望みを持ってここに落ちてきたのです。
魂とは何でしょうか?
誰かが言いました。心から愛されること、必要とされること。
ただの道具であっても、物言わずとも、大切にされたものにはいつか心が宿るのだと。
「ようやく見えた!にいちゃん!見えたぞ、光が!」
天は確かめるように、思い出しましたか?と問います。
弟は大きく頷きました。
「ああ、思い出した!
にいちゃんには、絶対に行かねばならぬところがある!わしはその道筋を繋げねばならぬ!
ゆえに今こそ取り戻したい。
かつてわしが"否定"した名を。その席を!
どうか、連れて行ってくれ!
わしこそは霊峰イヅカの意がひとつ――!」
弟は天を仰ぎ見て、無造作に伸びていた髪を結い上げました。
真っ白だった髪はその半分が茶髪に色付いて、隠されていた灰色の瞳が輝きます。
降り注ぐ光に手を伸ばし、細い糸を手にとりました。
手繰り寄せ、吊り上げられるように……
舞台は遠い遠い異界へと。
ここは、霊峰イヅカ。
ご先祖様の意が降り積もって山になったと言われる神聖な地です。
麓の社には参拝者たちが訪れますが、山道は険しい岩肌で、雲間から吹雪が飛んできます。
頂は閑散として、雪ですっぽり埋もれた小さな祠がぽつんとあるだけです。
ですが今日は珍しく、祠の屋根に誰かが陣取っているのでした。
「………………」
守護竜ケタルシリカ。
仮面をつけた少年の姿ですが、頭に鶏冠、身体は浅葱色の羽毛で覆われ、恐竜のような手足です。
祠の屋根にあぐらをかいて、大ぶりな尻尾に綿雪を積もらせては、ゆらゆらと振り落としています。
大昔、守護竜は凶事を呼び寄せる流星として『天狗』と恐れられました。
後の世で、災禍を鎮める『守護神』としての側面が築かれたといいます。
今は、災禍の管理者としての役目を担っているのです。
白い空に一筋の星が流れます。
「……あれは凶星か?」
一頭の獅子が鬣を揺らし、祠の隣に降り立ちます。
その立ち振る舞いは羽のように軽く、神々しい光で雪を照らしています。
「おや、シソウヤマではありませんか。」
シソウヤマは、生あるもの全てに救いを説くという獅子神です。
人の前では人の姿を、犬の前では犬の姿を……といったように、相手によってその姿を変えるとも言います。
「そうですね、凶星です。
小さな凶星です。私が呼んだのです。
ですが、現世に及ぼされるものではありません。」
「と、言うと?」
「地獄です。
以前、地獄を騒がせた子どもの亡者がいたのを覚えていますか?」
「……亡者『タイマ』。」
「そう、タイマ少年です。
地獄は閉ざされた牢獄。死者の赴く先。
ですがタイマ少年はあろうことか"生きたい"という煩悩を拗らせ地獄の理を"否定"。
異界の扉を開くような形で脱獄してしまいました。
おかげで地獄は大慌て。
獄卒を異界に送り込んで探させたり、地獄の壁をより厚くするよう対策を余儀なくされたとか。
……貴方様は、どなたよりもご存知とは思いますが。
実のところあれ以来、彼も小さな災禍のひとつとして私の管理下にあるのですよ。」
「其方の?
……それは初耳だ。」
「それはそうでしょう。
彼はずっと、遠い異界にいましたからね。
繋がりは一本の糸より細く……されど着実に、手繰り寄せました。
そう望まれましたので。」
「では、戻るのか。」
「そうなります。
ですが、些事でしょう?」
「些事だ。
最早地獄の壁は破られず。
異界に染りし者であれ、来たる罪人を拒みはせぬ。」
「では、彼のことをよろしくお願いします。」
獅子神は静かに頷くと軽い足取りで駆け出します。
頂から白い空へと跳んで、雲から雲に渡り、空の果てへと駆けて行ってしまいました。
「……相変わらずおっかねぇぜ。」
「ったくタイマの奴、また無茶するよな。
どうにか地獄の亡者として席は用意したものの……
あーあ。
祈って見守るってのも良い暇つぶしだったんだけどな、しばらくお預けか。
地獄はちょっかい出したくねぇもんなー。」
「アオイ兄ともいっぺんぐらい話してみたかったんだけど。
どうせなら守護竜の絵とか描いてもらうのに。
時間ねぇだろうなー。」
「これだから神様ってのは……つまんねぇよな?」
ため息をつくと真っ白な呼気が舞って、すぐさま綿雪にかき乱されます。
小さな祠は屋根下まで雪で埋まり、分厚い雲の影が落ちて、視界を覆うのは灰色ばかりです。
守護竜は、羽毛で覆われた浅葱色の尻尾を退屈そうに揺らします。
ひとつ欠伸を……と思いきや、くしゃみをして。
大人しく天へと戻るのでした。